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(番外編 5) 遺産

時間軸:本編終了後

注:この番外編には本当の意味での最期が記されています。ある意味バッドエンドです。本編や番外編・後日談の段階のハッピーエンドで終わっておきたい方は読まないことをお勧めします。


 息づかいが聞こえるほどに静まりかえった室内に、薄く陽が差し込んでいる。真冬の光は細く、しかしひとつしかない灯り取りの窓から漏れるそれは、冷え切った室内に真白の鮮やかな線を描く。
 層が出来るほどに積もった埃を払い、ネイは箱の隅に刻まれたプレートの文字を追うようになぞった。
「……見つけた」
 存在すらも封印するように、長い鎖でがんじがらめに固定された箱には、複数個の錠が設えられている。そのあからさまな外観に眉を顰め、ネイは懐から鍵の束を取り出した。
 
 ”エルダ”

 全く形の異なった鍵に共通して刻印された文字列。詳しく言うならばそれは人名で、遙か昔、安寧の時代に君臨した『白』の王を指す。グライセラ歴代の王の中でも、群を抜いて長く堅実な治世を敷いた人物である。何の変哲もない鉄の鍵は、その名を冠するが故に重要な骨董品と化す。
 一度は飛び出した実家の古い蔵の中、廃棄寸前の状態で放置されていた古い記録の中から、ネイはそのひとつめを見つけ出した。否、ネイが持ち前の気まぐれを発揮せずに、従順に蔵の整理を行っていたとすれば、それは間違いなく仕舞った人物の意図通りに捨てられていただろう。
 意味深な鍵に誘われ、興味だけで読み始めた、紙魚の浮いた記録の内容は、――それは、それは恐ろしいものだった。
(……かつて、『黒』と交流した者が居るとは)
 その時の驚愕を思い出しながら、今は冷静に、何百年と解かれることのなかった錠を破っていく。
(変わり者の多い家だってのは判ってたけど)
 記録の残し方は、それは慎重だった。はじめのひとつを頼りに、ネイの辿った場所は5カ所。そのいずれにも具体的なことは何一つ記されていなかった。ただ、『黒』自らが深く関わった遺物であることが示され、それをもって見つけた者に覚悟を問うていた。
 ひとつだけならば、ネイならずとも気まぐれが働いただろう。だがそれが幾度となく繰り返されるとなると話は変わる。
 そこに居るだけで人に穢れを撒く『黒』、そんな恐ろしい存在が残したものを追っても大丈夫なのだろうか。そんなものが本当に残っているのだろうか。――そう、疑問と躊躇が涌き起こる。今こうしてネイが最後の場所に辿り着くまでに、何人もの研究者が二の足を踏んだこと想像に難くない。実際、実家の蔵に眠っていたもの以外は、全て人の手が付けられた痕跡があった。
 穢れが残っている気がする、だが捨てられない。そうすることで自身が呪いを受ける錯覚を覚えるからだ。そうやって、何百年と残されてきた。
(馬鹿馬鹿しい)
 一旦『黒』から離れてしまえば、そこに穢れなど残らない。ネイがそれをそう真実理解し、風評に左右されない理由は、単純だ。
 『黒』に実際に接したことがある。そしてそれを他人から責められないだけの力、――微弱ながらも結界能力があったからだ。それ以上の理由があるとすればそれは、『黒』の遺物を残した時代に生きた彼の協力者だけが持ち得たものだろう。
 故にネイは今、最後の錠を解く。
 鈍い音と共に、数百年前の空気が立ち上った。
「……これは」
 掠れた声が喉を通る。だが、その緊張に驚きは含まれない。入っていた物はほぼ予想通りだった。
 分厚い研究書。それだけだ。だが、何度も修正を加えられた手書きの代物である事実が重い。これまでに得た情報に誤りがなければ、これはまさに、かつての『黒』の直筆なのだろう。
 端麗な文字が、始まりの言葉を綴る。

 ”言葉を交わした全ての人に。そして、アスカに”

 *

「おい、ネイ、――ネイ!」
 廊下の床が立て続けに悲鳴を上げ、乱暴に開かれた扉が抗議の声を上げる。それら一連の行動を耳だけで把握しながら、ネイは顔にかけていた上着を僅かに持ち上げた。
「不在だ」
「嘘つけ! 目の前に居るお前はなんなんだよ!?」
「昼寝中の人だ」
 細い隙間からネイの眉間に刻まれた深い溝を認め、騒々しくやってきた男はあからさまに深いため息を吐いた。それを聞き咎め、ネイは乱暴に髪をかき混ぜる。
「居留守だって使いたくもなるさ」
「って言ってもなぁ。お前、今度こそ本当に勘当されたんだって?」
「お前がそう聞いたんならそうなんだろ。上等だ」
「上等って……。研究、どうすんだよ。うちの国の研究施設にゃ、殆どお前の家の息が掛かってんだろ? どこも雇ってなんてくれねーぜ?」
 その事実を認め、しかしネイは鬱蒼した笑みを浮かべる。
「今からでも遅くないから、謝れば」
「遅いさ」
 断言に、男は訝しげな目を向ける。それを認め、ネイは更に深く笑みを刻み込んだ。
 特異な結界能力を有するが故に、大概の事を許してきた実家だが、さすがに今度ばかりは匙を投げただろう。なにせ、どこの国でも禁忌とされる『黒』の研究に着手したと公言したからだ。
「クラウ・エシュード」
 殊更に苗字を強調し、ネイは男の注意を促した。
「お互い、セルリアの名門の家に生まれて苦労したよなぁ」
「なんだ、今更」
「でもお前は、立派な軍人になった。今は第三師団副団長なんだろ? そんな奴は、私に今後近づかない方が良い」
「……まさか、あれも本当なのか?」
「あれがどれを指すのかは判らんがな。グライセラの連中を脅して地下倉庫に入って、禁書を持ち出して、更には『黒』の能力をどうにかする気だという話ならその通りだ」
「お前……!」
「付け加えるなら」
 続く言葉を制し、ネイは起き上がってクラウを見つめた。
「喜べ、道はもう見えている」
「何の道だ」
「勿論、『黒』の能力を制御するための、だ」
 息を呑み、クラウはネイを見つめ返した。正気か、それを逸脱したものかを見定めるような、どこか咎めるような色を含んでいる。
 予想範囲内の反応に嗤い、ネイは近くに置いていた分厚い書物を指し示した。
「お前には世話になったからな。特別に見せてやる」
「なんだ、それは」
「八百年前の記録だ」
「グライセラから盗んできたのか」
「勘が良いな。そこまで判っているなら、付け加えることはひとつだな。驚け。『黒』の直筆だ」
「!」
「すごいぞ、彼は。こんな術式は見たことがない。それに、研究の殆どは完成してる。あと一歩、彼がどうしても作ることの出来なかった術式は、百年前に編み出されてる。私はそれを組み合わせて補正をかけるだけでいいんだ。見事だよ、素晴らしい術式だ」
「……『黒』が、『黒』を抑える術を?」
「抑える、か。普通はそう考えるだろうな」
 黄ばんだ表紙を丁寧に指で撫で、ネイは思いを馳せるように目を細めた。
「でも、違う。これは『黒』の力を分散させる方法だ」
「分散って、そんなことしたら、周囲にあの恐ろしい力を撒くことになる!」
「そのまま分散するならそうなるだろうな。かつての『黒』が研究内容を完成させられなかった点はそこにある。だが今は、中和の法則だがあるだろう。これを利用すればどうだ? 『黒』の研究内容が確かなら、狙った生命体から術力を引き出し、大気中に還元させることが可能になる。そこに中和の法則を組み入れる」
「確かにそれができれば……だけど、そんなこと」
「不可能じゃない。だから私は、素晴らしいと言った。術式も複雑すぎて、目眩がしそうなくらいだ。ここに別の法則を加えるのは、さぞかし骨が折れるだろうな」
 そこに至る困難を思い、だがネイは楽しげな笑声をあげた。苦いものを呑み込んだような顔をしているクラウに対する、皮肉を混ぜた揶揄ではない。どう手を加えてやろうかと考えるだけで、本当に気分が浮き立つのだ。
「人類の転換期だ。やるぞ、私は」
 呆れたように肩を竦め、クラウが深々とため息を吐く。こうなっては誰のどういった説得も耳には入らないと、長い付き合いをもって熟知しているのだ。
「仕方のない奴だ」
「理解ありがとう」
「仕方ないついでに、俺も手伝ってやる」
 さすがに、ネイは瞠目した。
「お前の変人ぶりはとうに承知してる。けど、お前が何かに夢中になるときは、いつも自分のためじゃない。それで俺は、そういうのは嫌いじゃない」
 些か屈折しているが、厚意には違いないだろう。幼なじみの不器用な優しさに、ネイは破顔した。
「それならお前は、私の”アスカ”といったところだな」
「なんだ、それは」
「『黒』が冒頭で記している名前だ。最も縁の深かった人物――さしずめ、研究理由といったところなんだろう」
「じゃぁ、お前が術を完成させた暁には、俺の名前も冒頭で出してくれよ」
「ずうずうしい奴だ。だが、まぁ、冒頭は決まってないから、考えておいてやる」
「……書く内容も決まってないくせに、何言いやがる」
 もっともな指摘に、だが、ネイは口の端を曲げてみせた。胡乱気な、湿った視線をはね返し、得意げに胸を反らす。
「中身は今から組み立てるさ。だが、最後の文は決めてるんだ」
「へぇ?」
「”偉大なる黒の賢者に最大の敬意を捧げる”」
 クラウは、さすがに目を丸くしたようだった。
「――術の完成は、私の功績じゃない。だから、全ての成果は彼に捧げることに決めている」

 *    *

 どこか遠くで、鐘の音が響いている。時刻を告げるだけのそれはしかし、この時ばかりは弔いの音のように聞こえた。
「……まさか、私よりも先に逝くとはな」
 冷たくなった頬を指でなぞり、エルダは小さく言葉をこぼした。傾いだ体に合わせて軋む床の音が、今は妙に空々しい。主を失った家が、もの寂しさに無理矢理奏でているようだった。
 使い古された、しかし清潔に洗われた白いシーツに広がる、今はもう黒くなった染み。首から流れ出た命が、その活動を止めた証のようだとエルダは思う。
「最期まで、お前はアスカに迷惑をかけっぱなしだったな」
「姉さん」
「しかし、そうか……、アスカのいない世界に耐えろと言うのは、無理な話だな」
 病に侵されやせ衰えた女の、骨ばった細い手に握られたナイフ、それを固定する男の両手。そのすぐ横に男の首、黒いシーツ。視線を転じ室内を見回せば、窓際のテーブルの上には、薬の包装紙と僅かに水の残るコップ。それだけを見れば、何が起きたかなど考えるまでもなかった。
 そこまで理解しながら、これは寿命だった、とエルダは胸の奥に冷たいものを落とす。ありとあらゆる手を尽くし、しかしその全てが功を奏さなかった理由だ。25の年から数えて48年、73才。それはもう寿命なのだと、病床でそう苦笑された。
 今はもう忘れた世界の、その世界でのさだめなのだと。
「姉さん」
 呼びかけに、エルダはゆっくりと振り向いた。
「……どこかで、『黒』が生まれます。85年ぶりのことです。人々は恐慌に陥るでしょう」
「判っている」
「その前に、保護を」
「判っている」
 繰り返し、しかしエルダは動かない。
 平穏だった。――そう、世界はこの何十年と、恐ろしいほど平和だった。最も恐れるべき存在を忘れるほどに。その反動は、人々を震撼させ大地を揺るがすだろう。
 『白』として、被害は最小限に抑えなければならない。それはむろん、エルダにもよく判っている。
 だが。
「誰のおかげで、平穏だったのか、忘れているようだな」
「そんなことは」
「文官どもは、この子たちの残したものを全て焼き払えと言ってきたぞ。何も残すなと。呪いが広がると。まるで重大な汚点のようにな」
「……」
「馬鹿馬鹿しい」
 言い捨て、エルダは目を細めた。
「そんなことは、させん」
「ですが……」
「判っている。今はいい。少なくともこの王宮には理解してくれる者達が多くいる。だが、彼らが去り、再び『黒』が恐れられるようになったら、おそらくは、……そう言いたいのだろう?」
「はい」
「だが、あの子たちが、必死で探し、集め、考えてきたことは、この先に必要なものだ」
 皺深い両手を見つめ、エルダは決意を込めて言葉を継ぐ。
「守るさ。――私が、そんなことはさせない」
「……はい」
「いつか、――いつか人が、『黒』と正面から向き合う日が来るなら、その時に道は拓けよう。その時に、人は真実を知る」
 願いがあったこと。その願いに全てを捧げた人たちがいたことを。
 その時まで、きっと、守ってみせる。
「だから、……おやすみ」
 よく頑張った、と――穏やかに閉じられた瞼、緩く弧を描く唇を目で辿り、エルダは深く頭を下げた。


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