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(番外編 6)情報

時間軸:本編終了後



 砦の夜間巡回は、簡単なようでいて気の抜けない仕事である。特に緊張状態の続く国境ともなれば尚更だ。義務で配属される軍の新人の中には、精神的に耐えきれず退団する者も少なくない。
 深夜1時。白い息を細く吐きながら、ユアン・オルステラは国境の河の対岸にある隣国の砦に目を遣った。中隊長以上の役職を持つ者は、本来ならこうした巡回業務から外れることも可能だったが、異常の早期発見にこそ重きを置く彼は、むしろ一般兵よりも多く夜間業務に就いている。それは人気取り、或いは出世の為のアプローチとして陰口の材料にもなっているが、実際にそうして未然に事なきを得る事も多い為、表立って批難する者はいない。
 交代直前のけだるさを感じながら、ユアンは城壁の上をゆっくりと歩く。いつものように何気なく、しかし油断ならない視線であらゆる空間に注意を払い、――そうして彼は、ぎよっとして目を見開いた。
「どうかなさいました?」
 ペアである兵が訝しげな声を上げる。
「まさか、向こうの兵でも……?」
「いや」
 意図せずして掠れた声を恥じ、ユアンは一度咳払いをした。
「すまないが、緊急の用件が生じた。私はここで待っているので、交代の者を少し早いが呼んできてくれるか?」
「はい」
 兵が疑うことなく頷いたのは、それだけユアンの驍名が砦の若い者の間で広まっている証拠だろう。そう遠くもない屯所へ、急いたような早足で去る背中を見つめながら、ユアンは深々とため息を吐いた。
「……まったく」
 額を押さえ、嘆かわしげに天を仰ぐ。
 彼の遙か下、雪の積もる河岸には、彼に向けて手を振るふたつの人影があった。

 *

「ずいぶん突然のお越しですね」
 ひとことめに皮肉の微粒子がまとわせながら、ユアンは自室にふたりを招き入れた。
「殿下、それにアスカも」
 質素な部屋に足を踏み入れた2人は、揃って曖昧な笑みを浮かべた。
 粉雪を肩に置いた姿は、大陸で一般的な旅装。汚れ、くたびれた姿はけして、カムフラージュの為に用意されたものではない。彼らは数ヶ月前から活動を始め、頻繁に外国へ出かけている。
「確か、もっと北の方に向かわれたと聞いておりますが」
「ちょっと不穏な話を聞いたから、調査してたんだ」
「アスカを連れてですか?」
「……俺が、アスカを危険な目に遭わせるとでも思ってるか?」
 軽く注意を促せば、獰猛な笑み。反射的に一歩後退り、ユアンは謝罪を口にした。それを見て、殿下こと『黒』と手を繋いでいたアスカが呆れたように肩を竦めて相方を睨む。
「じゃあ、さっき、重力無視なジャンプで、私の内臓潰す勢いだったのは何だったのかな?」
「……。……すみません」
 遣り取りに、ユアンは隠れて口端を曲げる。ありとあらゆる生物の恐怖の対象であるはずの『黒』もその守護者にかかっては形無し、といったところか。再会からこちら、ずっと繋がれている手にしても、ジルギールの方から積極的に握っている様子を見れば、なんとなしに力関係が知れるというものだ。
 ユアンの生暖かい視線を受けて、飛鳥は照れたように頬に朱を昇らせた。
「い、言っておきますけど、手は、離せないからこうなってるんですからね?」
「判ってますよ」
「じゃあ、なんで笑ってるんです?」
「久々にお会いできたからですよ」
 嘘ではない。王都にいるラギやオルト、クローナとは違い、セルリアへの旅の後すぐに持ち場である北の国境砦へ戻ったユアンは、その後の『黒』とアスカについては伝聞でしか接点がない。寂しいと思うほどのことはなかったが、彼らのことを気に掛けていたのは事実である。
 この再会は予想外というべき代物であるが、思った以上に元気でうまくやっている様子を目にして、ユアンは素直な安堵を覚えていた。
「それより、不穏な話とはどういったものですか?」
 逸れた話を戻すべく、ユアンは簡素な椅子をふたりに勧めつつ先を促した。
「ここ最近は大きな動きなどなかったようですが」
「確かにな。だが、内部で人事異動があったみたいだ。穏健派の将軍に代わり、推進派の王族の推薦を受けた奴に変わるみたいだ」
 片方の眉を上げたユアンに、ジルギールは具体的な名前を挙げた。
「世論が好戦的に傾いているというより、国王に内部の敵対勢力を止めるだけの力がないと見るべきだろうな」
「……それはどのあたりまで公然となっているのですか?」
「発表はまだまだ先だな。だけど、向こうの王宮の高官の間じゃ普通に囁かれてる。うちの細作もうろうろしてたから、軍のルートでも、数日中には伝わるはずだ」
 それが確かなら、情報としてはさほど機密性の高いものではない。だが、得る速さは貴重だ。わずか数日、されど数日。その間にどうとでも体制を整えることが出来る。国境の戦いは、まずは相手に隙を見せないこと。それを思えば、悠然と対処できるだけの期間を得られたことは重畳とすべきだろう。
「しかし、どうしてその情報を?」
「たまたま、だな。国境の関を通るときに聞こえたんだ」
 むろん、普通に聞こえたわけではないだろう。関所の奥、おそらくは高官の詰める一室で人事異動の話が上がっていた、それを偶然耳にしたといったところか。友好国には『白』特製の通行証で正面から入るふたりだが、敵対国にはその手は通用しない。正規のルートではない抜け道は、隣国には不運なことに、重要な会議を行う場所にほど近かったようだ。
「それから王宮に?」
「そう遠くもないからな」
 あっさりと言い切ってはいるが、けして近いと言える距離ではない。馬を飛ばして数日。徒歩ならば何週間とかかるだろう。更には、他国の王宮に忍び込むことを労苦ともしない、その能力が恐ろしい。
「よく気付かれずに済みましたね」
「別に難しい事じゃない。光の屈折を利用して見えなくすることも出来るし、壁を昇ることも簡単だ。見つかったとしても、寝てもらえば済む話だしな」
「それはそうですが、万が一でも、見つかったら大変なことですよ?」
「グライセラが責められる、か?」
「ええ。普通の細作なら、口を割らない限りグライセラの手の者だと責められることはありませんが、あなたはひとめで判ります」
「そうだな。だけど、捕まらなければ問題はない。誰も、いや、どこの国も、『黒』が近くに居たなどと公表したくはないだろうからな」
 淡々とした冷気の籠もった声に、ユアンはただ頷いた。
 それにしても、と思う。
(力を使うことを制限しなくなったような……)
 以前のジルギールは、極力人と関わる際に超常の力を使うことを避けていた。セルリアへの旅は例外としても、それまでは何をするにも、規定の手続きを済ませ、人に紛れて静かに行動することを信条としていたはずだ。そうすることで自分も同じ人間であると主張しているようでもあったが、このところに伝え聞く彼は、大盤振る舞いと言って良いほどに能力を駆使している。異質であることに頓着しなくなったと言うべきだろうか。
 現に、黙って座っている飛鳥には、気が遠くなるほどの防御術が重ね掛けされている。今の彼女なら、一個中隊の集中攻撃を浴びたところで、傷一つ負うことなどないだろう。
(なんだろう、この過保護さ加減は) 
 好意的に捉えれば、『黒』であることに真正面から向き合い、大事なものを守るためにそれを利用することも厭わなくなった、或いは吹っ切れたと言えるだろう。
 だが、飛鳥を失いたくないというジルギールの気持ちは想像に易いが、見る方としては僅か数分で食傷気味になる勢いだ。否、あきらかに身を守る術以外の、――例えば人の注目を集めない術や、触れる者に不快感を与える類の術までかかっているのはやり過ぎというものだろう。
 ユアンは、遠く目を細めた。正直に言えば、言ってしまいたい。

 そこまでしなくても、誰もアンタの女に手を出したりしないから。

「……、……言えませんよねぇ」
「? 何が、です?」
 訝しげに首を傾げる飛鳥に、彼女の身に起こっていることをぶちまけてしまいたいが、さすがに命は惜しい。それよりも、同じように眉根を寄せているジルギールの無自覚さぶりに突っ込みを入れるべきか。
 0コンマ数秒の逡巡は、自己保身という名の下に綺麗に霧散した。それまでの思考を全て払い落とし、グライセラのいち軍人としての仮面をまとう。
 そうしてユアンは、にこりと微笑んだ。
「情報、ありがとうございます」
「いや、突然来てしまって、迷惑かけたな。他にも言うことはあるけど、夜勤だろ。さして緊急性は高くないから明日に言うよ」
 ジルギールらしい気遣いに、ユアンは黙って頭を下げた。
(こういうところは相変わらず、ですね)
 飛鳥の出現で変化が見られたと言っても、根本的にジルギールの立ち位置や彼自身の自己評価が変わったわけではない。わざわざユアンが夜勤の時を狙って、隠れるように現れたのはその証拠だ。
 飛鳥の能力により『黒』の力が押さえられているとしても、真正面から『黒』の訪問を受けて平然と対応出来る者は限られている。貴重な情報を携えていようと、白昼堂々『黒』が一般人の前に姿を見せるわけにはいかないのだ。そんなことをすれば、砦は機能しなくなるほどに混乱を来すだろう。
 ユアンの上司である砦の責任者もそれなりに肝の据わった人物ではあるが、対談に耐えうるかと言われれば疑問が残る。
 緩く頭振り、ユアンは改めてジルギールに目を向けた。
「では今夜は、この室をお使い下さい」
「仮眠はどうするんだ?」
「屯所で雑魚寝しますよ。もともとはそうでしたから。それにここなら、長いすとベッドがあります。どちらかが床で寝るなどということもせずに済みますし、丁度良いでしょう」
 どんな環境でも生きていける『黒』とは違い、飛鳥の体は通常の人と変わらない。どこか空いている部屋に忍び込むとしても、暖房のない環境では身体に負担を与えるだろう。ジルギールの能力に限界など無いに等しいが、適切な環境のためにそれを駆使すればするほど、異常に気付く人が増えてしまうのだ。
 殺風景とは言え、隊長格であるユアンに与えられたこの個室には、基本的な家具と暖房設備程度は整っている。快適とまではいかずとも、安全に休める場所には違いない。
 僅かに躊躇いを見せたジルギールは、しかし飛鳥を見て厚意に甘えることに決めたようだった。
「ありがとう」
 自然な微笑を見て、ユアンは目を丸くする。正直、若干の驚きを禁じ得なかった。
 それなりに長い付き合いではあるが、ジルギールの努力して作ったような無表情以外、特に和らいだ顔を向けられるのは初めてだったからだ。場を緊張させないために笑うことはあっても、ここまで穏やかな笑みを見ることはなかったように思う。
(……良かった、というべきでしょうね)
 ユアンやラギ、オルトはその任を解かれ解放されたとは言え、ジルギールと飛鳥の旅はまだまだ続く。今も北の方へ向かっているように、『黒』の力を無害なものへ変える術を開発するために、彼らの足が止まることはない。
 だが、この様子では、そうそうに心配することもなさそうだと、ユアンはふたりに向け穏やかに微笑み返した。
「ゆっくり、休んで下さいね」
 心から労い、ユアンはそうして部屋を後にした。



 仮眠の後、早朝の巡回を終え、他の兵と共に朝食を平らげたユアンは、厨房に寄り、ふたりぶんの食事を追加依頼した。本来なら所属と追加理由を書いた書類が必要となるが、そこは長年のうちに培った人間関係というコネを利用して曲げてもらう。
 そうして手にした軽い朝食を盆に、ユアンは人通りの少ない通路を通り、自室へと向かった。
 まだ薄暗い時間帯であることを考慮し、鍵を使う前に数度叩扉する。
「入りま――」
 言いながら扉を開け、そうしてそこで、ユアンは動きを止めた。
 ――見てはいけないものを見ている気がする。
 室内が荒らされているわけではない。暖房設備を使った形跡がある程度だ。僅かに隙間の空いた窓がやや不用心とも言えるが、中にいる人物を思えば、咎める必要はないだろう。
 部屋の奥に呆れるほど頑丈な防御壁が展開されているのは、旅の間野営をする必要のある彼らにとって、癖のようなものとして捉えることもできる。他、どこも乱れた様子がないのは、遠慮というものを正確に把握している客人として、十二分に評価すべきところだろう。
 だが。
「何やってんですか!」
 盆と机が、同時に批難の声を上げる。
「離れなさい、そこになおりなさい、ふたりとも!」
 ジルギールの方は、とうにユアンの入室に気付いていたのだろう。だがまさか、大声が飛んでくるとは思っていなかったに違いない。文字通り飛び起きた飛鳥の横で、ジルギールもまた、目を丸くしたようだった。
「誰がそこまでくつろげと言いました!?」
 腰に手を当て、説教モードに入ったユアンに、飛鳥は戸惑ったように目線を揺らす。起き抜けに状況が把握できていないということもあるだろう。
「え? ベッド、使っていいって、言いましたよね?」
「ベッドと長いすを使えと言ったんです。同衾しろとは言ってません!」
「ど、――!!?」
 絶句する飛鳥。ユアンとしても、狭いベッドでジルギールの抱き枕状態になっていた彼女が、所謂添い寝以上の行為に及んでいたとは思わない。そんな形跡も様子も全くない以上、彼女にとってそういう寝方をするのは、旅の間では珍しくもないことなのだろう。
 状況を呑み込んだか、ジルギールの方はやや憮然とした顔で、真っ黒な髪を掻き上げた。
「別に、わざとやってるんじゃない。変なこともしてない。アスカから離れたら、『黒』の力がダダ漏れになって、兵が驚くだろ?」
 『黒』の力を抑えるためには、寝ている間に、例えば寝返りなどで離れるわけにもいかないと言う。飛鳥が近くにいたところで、接触していなければ特殊能力の効果は半減してしまうのだ。人の多い場所で、『黒』がいるとばれる、そんな失態は確かに何をおいてでも回避しなければならないだろう。
 もっともだ。言い分としては間違っていない。
 だがここは、女ひとりいない禁欲的な、ある種不健康な砦だ。街までは遠い。――つまりはユアンも、ある程度の我慢を強いられている。軍規に恥じることのない硬派な彼も、健全な成人男性なのだ。
 故に彼の自制力は、欲求不満に羨ましさの相乗効果をもって、容易く限界を突破した。
「この狭いベッドに無理に収まらずとも、椅子を寄せてそこに寝て、手を繋いでいればいい話でしょうが!」
 ユアンの怒声に黒髪のふたりは顔を見合わせ、次いでベッドと長いすに目を泳がせ、そうして頬を赤くして俯いた。


 ほどなくして、――「『黒』に怒鳴った勇者」として、ユアンの名は内外に広まることとなる。それが新たな二つ名として定着しなかったのは、彼にとっては幸いと言うべきだろう。


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