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 (1)

 それは予想してしかるべき、だが、ある意味突然の通達だった。
「……あの、つまり、家も改築するってことですよね?」
 おそるおそる問えば、料理屋兼酒家兼宿屋の主人ははっきりと頷いた。そして、口元を引き攣らせるテアに向かい、申し訳なさそうに首を傾げてみせる。
「ほら、この前から水道の調子も悪かったし、あちこちが随分傷んでるだろう。補修しようと思ってたが、いっそ、改築してはどうかって話になってな」
「それは、判りますが」
「ついでに住居の方も直そうってわけだ。まぁ、そっちの方は手直し程度だからすぐ済むが、悪いが、十日間ほど、どこか仮住まいを見つけておいてくれ」
「マスターたちはどうするんですか?」
「そうだな、仕事は年中休みなしだから、たまには家族で保養地にでも行くかと思ってる」
 あっさりと返された返事に、そうですか、と頷く他に何が出来ただろうか。
 必要なことは言ったとばかりに、厨房の方へ戻っていく主人に悪気はないのだろう。だが、残されたテアの方は唖然とするばかりだった。
(十日間もって……)
 一日二日であれば、救護所の端に寝泊まりさせてもらうこともできる。調理場もあれば井戸も使わせてもらえるが、あくまで急場の援助をしてくれるだけで、宿泊施設ではない。三日も居れば確実に追い出されるだろう。
 今居る場所は王都である。宿泊施設は現在働いているこの場所を合わせ幾つも存在するが、どんな安宿であれ、十日も泊まる金はテアにはない。労働者たちが数人でひとつの家を借りる共同住宅を借りるという手もあるが、この場合は年若い女というところが問題となる。得てして、そういった雑居住宅に寝泊まりしているのは地方からの労働者、つまりは男の方が圧倒的に多いからだ。
 そこまで考えて、テアはふと苦笑した。
 ――仮に男だったとしても、解放民として戸籍を持たないテアには、仮住まいを得ることすら難しいだろう。
 ここ、ルベイア王国は、安定した治世を敷く賢王のもと、順調に発展を遂げている新興国である。建国からおよそ百数十年。大陸全土を見渡せばまだ中堅程度とは言え、着実に版図を広げるこの国に、周辺諸国からの移民は列を成し、雑多な印象ながら周辺のどこよりも活気に溢れている。
 だが無論、まばゆい繁栄には陰が付きまとう。
 領土が広がるということは、すなわち、領土を失う国もまた在る、ということだ。つまりは戦敗国が生み出す難民、強制移入民、或いは戦災孤児、それがテアだった。

 *

 日付が変わる頃、王都の夜を煌めかせた街灯の火を巡回の兵が落としていく頃に、テアの一日はようやく終わる。
(……結局、どうするか決まんなかったな)
 明後日には工事が始まる。明日は半日の営業だが、その後すぐに荷物をまとめて出て行かなくてはならないだろう。もともと私物と言えるほどのものはないため、まとめること自体に問題はない。考えあぐねるのはその先だ。
(一日目はとりあえず救護所でお世話になって、その間に決めるか……)
 思い、否、と首を横に振る。それはけして、根本的な解決になりはしない。一日延ばしたところで詰むのがオチだ。救護所という選択肢は切羽詰まった状況に残しておかねばならないだろう。
 温暖な季節をいいことに野宿、という手もあるが、いくら治安のいい都とは言え、夜に女が一人で外に居ることはやはり好ましいことではない。ましてや、寝床となるような隠れた場所となれば、危険は何十倍にも膨れあがる。傭兵団に属するような戦闘能力の高い女であればともかく、町の女の平均よりは強い、という程度のテアでは、条件的に厳しすぎるだろう。
 多少の頼み事であるならばともかく、寝食を甘える程の知り合いはいない。
(……まったく、どうしろと)
 その日何十度目かのため息は、横にいる人物の疑問を誘ったようだった。店の裏口の戸に背を預けたテアの足下、踞り、僅かな湯気を立てる雑穀粥を啜っていた襤褸の山――もとい、立派な浮浪者が、手を止めてテアに問うような目を向ける。
 苦笑し、テアは緩く首を横に振った。
「何でもないですよ。それ、早く食べちゃって下さい」
 おそらくは彼、の手にあるのはテアが夕食として避けておいた賄い食である。
 しばらくの無言の問答の後、男が視線を粥に戻したのを見届けて、テアは再びため息を吐いた。音はしないまでも、自身の腹は批難の声を上げている。かれこれ半日以上、何も口にしていない。一日二食というのはよくある話だが、さすがに朝から何もという状況は堪えるものだ。だが、店の裏口で、倒れるように踞っていた彼を、どうしても見過ごすことはできなかった。
 餓えの苦しみは身を以て知っている。それ以上でもそれ以下でもなく、ようは気まぐれの域なのだろう。そうしてそういった気まぐれで、テアはよく貧乏くじを引く。
(ああ、そういや昨日も殴られたっけな……)
 王都とはいえ、隅々まで「お上品」というわけではない。一般庶民の暮らすこの界隈は、様々な労働者が行き来する。すなわち、夜間営業の料理店では、当たり前のように毎晩、酒の入った騒動が起きるのだ。口喧嘩であれば上々、店の外に追い出せる程度の喧嘩であれば並、最悪なのはむろん、店内で暴れるパターンである。そうして昨夜はテーブルがひとつ壊された。止めに入った、否、入らされたテア共々、使い物にならなくなったわけではないのを救いと見るべきか。
(一昨日は変態オヤジが来てたし、その前は食い逃げが来たし、その前は……)
 思い起こせばキリがない。厄介な客が来た場合、料理屋の主人の娘は初めから逃げ腰であり、通いの看板娘は傷が付いてはかなわないと主人自ら奥へ連れて行く。となれば残りはテアしかない、といった具合で、暗黙のうちに接客を押しつけられる羽目になる。もと孤児だから、移民だから、家族がいないから、という理由が根底にあるのだとしても、テアには文句も言えなかった。戸籍がもらえるまでのあと二年、それまではこの場所を出ても働く場所などない。
(……まぁ、根本的にひどい目にあったわけじゃないし)
 主人もその家族も、けして親切というわけではなかったが、それでも、ろくに働けもしなかった子供を捨てることもなく、今もとりあえずは衣食住整った環境に置いてくれている。あからさまに荷の重い仕事を押しつけられるとはいえ、あくまで通常業務の範囲内であることを思えば、根は善良な人たちなのだろう。
 突然、十日間も店を閉めると言いだしたことも、それくらいなら何とかするだろうという、楽観的な思いこみからきていること、想像に難くない。確かに、生き延びるという点だけを考えれば、それくらいはどうとでもなるものだ。ただし勿論のこと、その前に「無事に」という但し書きが付くことはない。
 カラン、乾いた音に気付き、テアは視線を足下に落とした。空になった椀を置き、頼りない足取りで浮浪者が去っていこうとしている。
「明日はないですからね」
 頷いたか揺れただけか、彼は振り返りもしなかった。僅かな虚しさを覚え、テアは緩く頭振る。根本的に浮浪者を救うわけではないのだ。一時の気まぐれに対する礼を求める方が傲慢だろう。


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