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 残り水で椀を洗い、厳重に裏口を閉めて、与えられた半地下の部屋へと引き上げる。古い物入れをベッドへと転用しただけの寝床と小さな机、樽をひっくり返したような椅子、そこにテアが入ればもはや余剰の空間はない。王都の平均的な住民からすれば、それは部屋と呼べるのかどうかも怪しいところだろう。
 だが、あくまでテアは、ここを寝るだけの場所だと割り切っている。後先考える余力もないほど疲れ切っていれば上々、物思いに耽る時間を持つことの方が彼女には億劫だった。
(やだな、こんな日は――)
 かつての夢を見る。懐かしくも甘い夢などではない。脳裏に染みついた恐怖の記憶だ。――失った故郷の。
 地面を穿つ馬蹄。響き渡る悲鳴と罵声。闇は深く、しかし空は朱く、そこはどこまでも死の気配が充満していた。感覚を無くしていく手足、爆発寸前の鼓動。視界は涙で曇り、口を開けば嗚咽だけが漏れ出ずる。
 転じる場面、進む歳月。濃厚な死に取って代わるのは、餓えと、饐えたドブの臭い。腐りかけた残飯と固い寝床。記憶の中の自分は、先に見た浮浪者と同じでしかない。落ち窪んだ目に光はなく、未来という言葉さえも知らなかった。
 夢を先取りするように浮かぶ記憶の泡沫に、テアは深々とため息を吐く。これまでもこれからも、捨てられない過去に苦しむのだと思えば自然眉間に皺が寄った。
 何も考えずに済むほど、めまぐるしい日常であればあるほど、身体の感じる疲労とは逆に精神は安定する。そういう意味では、今の若干理不尽な環境に不満を覚えることはなかった。倒れ込むように寝入るのが殆どだからだ。
 だが、よりにもよって、十日も暇が出来てしまった。その間の居場所の確保も重要ながら、持て余す時間の消費の仕方も、テアには頭の痛い問題である。戸籍を持たない彼女は、様々な施設の利用が制限されている。王都の民が暇つぶしと称して出かける国立公園なども、立ち入ることができないのだ。更に言えば、役人の同伴なしに王都から出ることも許されてはいない。
 やることもなく、させてもらえることもなく、ここで一体、何をして過ごせと言うのか。そう、恨み言が口を突いて出かけたとき、テアはふと、ある可能性に思い至った。
(……出られるかも)
 十日間を王都で過ごすことに限局するために、身の振り方に苦悩することになるのだ。ひとりで過ごすには制限があまりにも多すぎる。だが逆に言えば、同伴する者さえいれば、ルベイア国民と同じ扱いを受けることができるのだ。難しいが、不可能なことではない。
 そしてテアには、それを可能にする心当たりがあった。
(王都を出ることが出来るなら、――故郷に行けるかもしれない)
 そこに赴くことを渇望しているわけではない。むしろ、逆だ。
 だが、とテアは薄い掛布を握りしめる。
(いつまでも、記憶に苦しめられてるわけにもいかない)
 繰り返し夢に見るのは、かつての惨劇の日の光景が強烈に過ぎるためだろう。遠く離れているが故に、テアの心に在る故郷は、かの日から一歩も動いていないのだ。苦しいだけの思い出は、忘れられないのではなく、自分の中で昇華できてないだけなのかも知れない。
 二年後に戸籍を得たとしても、完全なる自由や満足な権利が手に入るわけではないことを思えば、与えられた十日の自由は、むしろ天啓と取るべきか。
 行きたくない、だが一度は行かねばならないだろう故郷を思い、テアは固く目を閉じた。

 *

 一大決心をしたテアは翌日昼過ぎ、国立の人材互助組合の建物の前に立ちつくしていた。通称、派遣組合。様々な特技を持った者が登録し、持ち込まれる依頼を引き受ける組織である。お針子の仕事から要人護衛まで幅広く扱われるため、気軽に利用する者も多い。むろん、報酬は組合へのマージンを含むため高めとなっているが、トラブル発生時の対応や保証が万全に整えられているという最大の利点がある。
 むろん、組織の前身が民間の便利屋程度のものであったため、属国を含まない、はっきりとルベイア国という枠組みに含まれる狭い範囲内にしか影響力はない。他にも一定規模以上の組織活動に関わるときはは利用不可とされ、そういった影響範囲の広い依頼は、それを専門とする団体の管轄とすべし、――といった規制もある。簡単に言えば、国の重鎮が他国へ赴くときに護衛依頼を出すことは不可、家族旅行のガイドを依頼するのは可、ということだ。
 そういった不便ともややこしいとも言える点はしかし、今も構成員の殆どが民間人である組合が関与すべきではないというスタンスを貫いていることもあり、さほど問題となってもいないのが現状だ。尚、現在は直接雑多な依頼を受けているが、これはあくまで「便利屋」の規模拡大と民間の要望を拾い上げての臨時措置であり、周辺諸国との関係が安定し内政に余裕が出来る頃には、より専門性を高めた組織へと細分化される予定となっている。
 イメージで言えば、日常生活品を幅広く扱う万屋といったところか。それ故に敷居はけして高くはない。だが、初の試みであるテアの心臓は建物を目に入れる前から高鳴りっぱなしだった。
 数人、怪訝な顔をして入っていく街人を見送り、門番の目が不審な色に変わる直前に震える手で扉を押す。
「いらっしゃい」
「わっ」
 一歩、踏み出すと同時にかけられた声に、テアは文字通り飛び上がった。
「びびび吃驚した……」
「あはは、ごめんね。表から、すんごく悩んでる女の子が来てるって聞いてたから」
 笑い、男は組んだ手に顎を乗せて、興味深げにテアを眺めた。
「ようこそ、派遣組合へ。どんな依頼に来たんですか?」
「う、受付の方ですか?」
「いや、正確には利用案内人ですね。初めて利用する人にいろいろ説明してます」
 丸い眼鏡の奥で目が好意的に細められる。あきらかな営業スマイルだが、そうと意識させない人懐っこさは初心者の不安や警戒心を解きほぐすに足りるだろう。同じく客商売の経験故にそこまでの安堵は得られなかったが、右も左も判らない状態で相談する相手が出来たことは、テアにとってもありがたいことだった。
 依頼内容と要望、出せる金額を具体的に示し、更に戸籍を持たない戦災孤児であることを伝え、男の様子をつぶさに伺う。ここで不許可と判じられれば、そこで全てが終わるのだ。如何に真剣かを態度を持って訴えたところで罰は当たらないだろう。
 案の定、男は話が進む内に表情を厳しく変えていった。
「正直に言うと、おそらくその条件を受理してくれる人はいないでしょう」
「……無理ですか」
「そうですね、目的地まで往復およそ八日、その間の依頼内容は道案内で安全さえ守れれば宿泊先などは問わない。まぁこれだけなら指定の金額でも可能です。しかし、目的地そのものがまずい」
「大きな街道を通るだけでもですか?」
「目的地のシドラ国、いえ、シドラ地方は現在危険区域指定を受けています。なので、道案内という依頼は本来不可で、護衛という形になります。そうすると特殊技能である戦闘能力のある者という指定が入り、依頼に必要な金額が倍増します。危険レベルはかなり高めに指定されていますので、ランク5以上の同行者が必須になるでしょう」
「そう、ですか……」
 男の言うランクとは、派遣組合で定められている技能レベルである。実力不相応な依頼を受けた為に発生したトラブルが多発したために設けられたものだが、依頼者の求めるランクに至らなければ受けられないという規制はない。あくまでも目安であり、後は交渉次第となる。同じランク帯に属するとしても得意不得意、土地勘や特殊な経験が物を言う場合も多いのだ。
 だが、護衛任務に関しては交渉の余地はないだろう。落胆に肩を落とすテアに向けて、案内人の男は申し訳なさそうに息を吐いた。
「すみませんね。でも、安全のためです」
「その……安全保障を抜いた場合でも駄目ですか?」
「と、言いますと?」


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