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0.


 主を失って五年、最後に手入れをされてからの月日を思えばその荒廃は当然のものと言えるだろうか。窓から見える荒れた庭に、虫の声だけが騒がしい。
 人為的に割られた窓から容赦なく吹き込んだであろう雨風により、その部屋は廃屋という名にふさわしい様相と呈していた。元が贅をこらした屋敷だっただけに、在りし日の名残が無惨な様子に拍車をかける。
 朽ちた枝や葉、絨毯にこべりついた泥を踏みながら、ふたりは油断無く室内を見回した。
「このあたりよね?」
 緊張の滲んだ声に、無口な相方はただ顎を引く。いつも淡々とした様子を崩さない彼女だが、額に滲む汗は隠しようが無い。
「行くよ」
 いつでも剣を抜けるようにと柄に手をかけたまま、仄暗い部屋の奥に大きく足を踏み入れる。そうして素早く身構え、――ふたりは大きく息を吐いた。
 誰もいない。代わりに巨大な外付けのクローゼットが倒れている。少し前の物音は、これが原因だったに違いない。
 あからさまな安堵が力の抜けた肩に脱力感を押し付ける。
「勘弁してほしいよ、まったく……」
 愚痴に近いぼやきにも、生真面目に頷いてみせる相方。同意か慰めか、判別つけ難い表情である。固定パートナーというものが存在しないため、法務省の任務は基本、大概初めて顔を見合わせる者同士が行動を共にするのだ。割り振られた地に向かい捜査を始めて数週間、互いの癖に慣れたとはいえ、長年の付き合いで知る細かなニュアンスまでは判らない。
 これが終ったら、固定チーム制を提案しよう、そう思いながら半ば用をなさなくなった雨戸をこじ開ける。
 昨夜の集中豪雨は風を従え、随分と斜めに強く降っていたらしい。足下に柔らかく不快な感触を覚えながら、室内を改めてぐるりと見回せば、どこもかしこもびしょ濡れの状態だった。
「……ん?」
 屋根裏に雨水が残っているのだろう。未だに水滴を弾く床を何気なしに見下ろした時、ふと、普段であれば見過ごすような違和感を覚えた。
 部屋の隅、周囲となんら変わりのない床の一部に、不自然に水が溜まっている。同時に気づいたらしい相方も眉根を寄せ、次いでふたりは顔を見合わせた。
「調べよう」
 頷き合い、既に原型を止めないほど朽ちた絨毯を剥がす。その下にはまだかつての面影を残す美しい木目の床。整然と並んだそれに特におかしなところはない。床と言えばよくあるのが隠し収納庫だが、大概は叩打の音や不自然な板の組み方でそれと判るものだ。それらの違和感を全く感じさせないただの床、――確かに以前ならそうとしか見えなかっただろう。
 だが、五年はその巧みな工作を暴くに十分な年月だった。風雨にさらされた屋敷は酷く傷み、陽の届き難い室内は湿った劣悪な環境を維持し、木材は自然の摂理に従って朽ちていった。その結果が、どこか不自然な陥没。それでもこの日のような、探索には不向きな状況でなければむしろ見落としていたに違いない。
 思いがけない展開に、喉が大きく鳴ったのは止むを得ないというものだろう。せいぜい40センチメートル四方、だが床の下に何かがある、それだけで動悸を促すには十分だった。
「強引に床を剥がせそうだけど?」
「すぐ上を剥がすのは止めた方がいいと思います。どんな壊れ物があるか判りません。周囲から崩していきませんか」
 冷静な意見に同意を示し、床板に手をかける。触った感触からすれば、特殊な工具は使わずともなんとか出来そうな具合だった。
 相方に見張りを頼み、ナイフをねじ込んで梃子の原理で一枚ずつ剥がしていく。おそらくは精巧に出来たカラクリがあったのだろう。窪みの周辺は結構な広範囲にわたり、普通の床にはあり得ない複雑な構造で板が組まれていた。
(これは、奇麗な状態では見つけられなかったのも頷けるな。おかしいと気づけても、カラクリを上手く動かすには人手が要りそうだ)
 額から滑り落ちた汗が床を更に湿らせる。
 そうして慎重に作業を続けること数十分、ようやく最後の一枚を剥がした時には、背中は暑さだけではない汗にじっとりと濡れていた。
「あった」
 震える手で、中のものを取り上げる。
「紙束だった。随分厳重に保管されてたみたい」
 油紙で幾重にも巻かれた包みを渡し、凝り固まった体をほぐす。立ち上がって背筋を伸ばせば、そこかしこが悲鳴を上げた。思った以上に強張っていたらしい。
「どうします?」
 戸惑ったような視線は、対処に困っているということだろう。確かにこうも怪しい代物に当たる確立は低い。捜査官として働き始めて定年まで、一度もそういった事例に遭遇しない者もいるほどだ。
 しかも、ふたりが追っているのは生半な事件ではない。身の程以上の情報は時に弊害となる。知らなければ良かったということが、現実にはさほど珍しくもない頻度で起こるのだ。慎重に慎重を重ねたところで足りるとは思えない。
「中身はいろんな意味で知らない方がいいと思う。けど、これが本当に関係のあるものなのかが判らないから、とりあえず、包みだけは解いてみない?」
 事件の関連性を示すもの、或いはそういった記述が見つかった時点で読むのを止める、それしかないだろう。
「開けるよ」
 汗に湿った手を拭ってから、油紙に手をかける。指の震えが止まらない。
 剥かれていく油紙の皮、その中から黄ばんだ紙が姿を見せる。いやが上にも高鳴る鼓動。どちらのものとも判らない。
 少しだけ、と念じつつ折り畳まれた紙を開く。
 ――だが、ふたりの慎重さが結果に結びつくことはなかった。
「これ、は……!」
 同時に息を呑み、ふたりは悲鳴に近い声を上げた。持ったものを投げ出したい衝動にかられ、手を無理矢理台に叩き付ける。
 開いた紙、まさにその一枚目に最も知るべきでなかった重大な情報が記述されていたのだ。続く数行もまた、知った名に引きずられるようにして目がその後を追う。無意識だ。だが、わずかながらも取り戻した理性が紙から目を引きはがすまでに得た情報は、彼女たちを後悔させるに十分な代物だった。
「なんてこと!」
 慌てて油紙に包み直し、それが隠されていなくてはならないものだとばかりに胸に押し付ける。
(そうだ、これは、このまま朽ちなくてはならないものだった……)
 だが、見つけてしまった。そして彼女たちの職務が、それを見なかったことにすることを許さなかった。
 体を支えるように台にもたれ、何度も深呼吸を繰り返す。
「法務省に……ハウエル様に届けないと」
「今から馬を飛ばしますか?」
「駄目。この周辺に誰かが居るって疑いが晴れた訳じゃない。それに、一度だけちらっと見えたのが本当だとすると」
「……そうでしたね」
「あからさまに過ぎるし、偽物であることを祈るけど、今は情報が少なすぎる」
 頭振り、強く目を閉じる。
 どうすればいいのかなど判らない。どういう行動を取っても危険であるように思えるから厄介だ。
 いくつもの方法を頭の中で検討し、取捨選択を繰り返し、そうして結論を出す。勿論、それが最上のものなどとは思えない。だが、それ以上、最悪のパターンを回避出来る方法が考えられなかった。
 わずか数十分にして疲れの滲んだ顔を上げ、乾いた喉に唾を無理矢理流し込む。
「今から言うことをよく聞いて」
 口を開き、相方をまっすぐに見つめ、――しかし彼女、ベティーナ・ヒルは脳裏に、もう二度と会うことはないだろう、近しい人々の顔を思い浮かべていた。


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