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1.


 クリスティン・レイはごく普通の女だ。
 家を出た兄の代わりに家業を継ぎ、見習いの商人として父親の背を追う22歳、独身。
 裕福な家庭で必須とも言える女性としての嗜みとやらは必要最低限、長ずるは馬に剣にと非常に逞しく育ってはいるが、別段男装趣味もなければ、女であることを必要以上に嘆いているわけでもない。体を動かすことが好きな活発な女性、言ってみればその言葉の内に収まる程度の平凡さである。
 故にこの時、――己の身に起きたことをしばし理解できず、或いは理解することを拒否したとして誰が責められただろうか。
「ちょ、……これ、どういうこと!?」
 磨かれた鏡に映る己の姿を見て、クリスはぽかんと口を開けた。
「なんで兄様が映ってんのよ……!」


 ……事の始まりは、数日前に遡る。

 *

 その日最後の残照が、大地を黄金に染めて落ちた。闇への一瞬の抵抗、だが上空に待機していた藍がすぐに光をねじ伏せる。
 時間で言えば19の刻。闇の襲来とともに、熱の籠もる地表に風が涼を運ぶ頃合いである。子供たちは遅い家路を急ぎ、仕事を終えた街の者が酒場や浴場を目指し歩く。光と陰の境界が朧になるこの時間、動く者と背景が溶け込む曖昧な視界を利用して、ふたり、路地へ消えていく人影もある。
 噴水前の広場には気まぐれ風が踊り、夕涼みの人影がベンチに心地よい沈黙を落とす。おおよそ平和な風景は、国、――イエーツ王国に住む者には当たり前の、そして貴重な財産でもある。
 そうした王都の外れ、中規模の邸宅が並ぶ一角に、周囲の様子からは些か浮いた雰囲気で立つふたつの人影があった。
「送らなくっても大丈夫だってば」
 邸宅のひとつ、瀟洒な門の前に女性にしては若干低い声が響く。
「だいたい何、その格好。仕事帰り?」
「そうだ」
「じゃあ、尚更。エミー、じゃない、義姉さんのところに早く帰ったげてよ」
「そうはいかない」
 両手に抱えるほどの荷物を持ったまま、クリスティンは呆れたように頭半分ほど高い人を見上げた。身長177センチメートルの彼女を悠に越す軍服の男は、無表情のままに首を横に振る。
「エマにはお前を送ってから帰ると言ってある。彼女からもそうするように勧められた」
「あのねぇ、そんなの遠慮に決まってるでしょ」
「それはない」
「あるってば。いくら元々友達だったからって、立場変われば実家ってものに対する遠慮が付いてくんの。いい加減、兄様もそこんとこ考えてよ」
「判っている。だが、お前の身に何かあったら、お前を置いて帰った俺ではなく、妻がそれを強いたと思われ、それこそ辛く責められる」
 ああ言えばこう言う。しかも今更ではあるが若干過保護傾向にある。そんな思いを口には出さず、クリスティンは深々とため息を吐き出した。
 現在、彼女の前にいるのは実兄である。双方ともそれなりに人目を惹く顔立ちをしているが、似ているとは言い難い。彩度の低い茶の髪に同色の目をしているクリスティンに対し、兄であるクリストファーはそれよりも濃い色を纏っている。父方、母方の血が極端に出たと言えばそれまでだが、知らぬ者が見れば、兄妹喧嘩ならぬ痴話喧嘩に取られかねないだろう。
 ちらちらと向けられる視線を視界の端に映しつつ、往来で口論をすべきではないと表情を改めたクリスティンは、若干猫なで声でおもねった。
「モニカの内々のパーティったって、兄様は別に招待されるほどの知り合いってわけじゃないでしょ。こんなところでグダグダやってたら不審に思われるじゃない。兄様も仕事帰りだしお腹減ってるでしょ?」
「空腹には慣れている」
「慣れてても、ほら、早く愛妻のご飯食べたいでしょ」
「だったらさっさと送らせろ」
「大丈夫だって。私は剣も使えるし」
 嘘でも誇張でもない。実際にクリスティンは大概の男と戦っても引けを取らない腕前だ。その事実をもって腰に佩いた細い剣を見せれば、クリストファーは小さく鼻を鳴らしたようだった。
「俺にも勝てないお前が何を言う」
 にべもない一言にクリスティンはぐっと喉を詰まらせる。クリストファーは強い。軍部の中にあり、少なくとも若手の間では上位を争う実力者だ。それと比較するほうが間違っているとは思うものの、己より強い存在が居るという指摘であることには変わりない。
 口を尖らせ、クリスティンは広場を見回した。
「こんっな平穏なところで何があるっての」
「時には何かある」
「大通りを歩いて帰れば安全でしょ。それに、兄様の家と実家は、ここからじゃ正反対の方向じゃないの」
「走れば数分だ」
「歩いても僅か数十分の道でしょ! そのどこに危険があるっての!」
 あまりの堅物さ加減に髪をかき乱し、唸り、声を荒げ、そうしてクリスティンは前傾姿勢のままで固まった。――おそらく、叫んだ本人が一番愕然としただろう。
「逃げろ!」
 音程の狂った忠告、轟音、そして一瞬遅れて悲鳴が響く。
「きゃぁぁぁぁあああっ!!」
「!?」
 殆ど同時に振り向いた兄妹の目に映ったものは、狂ったような勢いで迫り来る二頭立ての馬車。周囲の風景を霞ませるほどに濛々と巻き上がる砂煙。左右にぶれる荷台が通りの建物に当たるたびに壁は削れ、巻き込まれた人々が叫びながら我先にと走り去る。
 あまりにあり得ない光景に、クリスティンは一瞬体を竦ませた。居合わせた場所が悪かったとも言うだろう。背面には門、右には兄、左には植木と、真正面以外に自由に動ける範囲がなかったのだ。勿論、唯一空いている方へ逃げたところで、絶命が数秒早くなるだけに過ぎない。
「クリス!」
 横に避けるという選択肢を持っていた兄が、クリスティンの腕を引く。抗いようのない力に体が傾ぎ、手にしていた荷物が宙を飛ぶ。
 本来ならば、それで終わりだったはずだった。兄を下敷きに倒れ込んだクリスティンは、己の立っていた場所に突っ込んだ馬と馬車を這い蹲りながら見上げて震える、――それで終わる程度の距離はあったのだ。
 だが、
「危ない!」
 無理な暴走で、車軸が歪んだのか。馬車は、直前で大きく軌道を変えた。
 逃げて、と遠くからの切羽詰まった声。再び響く悲鳴。
 それらをどこか遠くに聞きながらクリスティンは、低い位置から、急に真っ暗に陰った空を仰いだ。
 眼前に迫る車輪。弾け飛ぶ馬車の扉。そう認識したのは一瞬にも満たない時間だっただろう。
 己の上に倒れてくるそれらを茫然と眺めながら、クリスティンは急速に意識を失ったのか。
 ――記憶は、そこで途切れている。



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