[]  [目次]  [



そしてここから生きるために


1.


 ただいまと言いかけ、レスターは家の中の異様な様子に何度も瞬いた。
 古い家の多い周辺の住宅街は、静謐をもって良しとする雰囲気がある。エルウッド家も長くその暗黙の了解を守り、隣人との穏やかな関係を保っていた。――たとえ、家の中が嵐のまっただ中であろうと。
 それが今はどうだ。大手を振って夜逃げするような勢いで、通路にまで家具がはみ出している。ひと部屋丸々荷物を出したような有様だ。
「あ。――お帰り」
 呆然とするレスターに暢気な声が掛かったのは、帰宅してからゆうに五分は経過した後だっただろう。家具で作られたバリケードで行く手を阻まれているその奥、客室の方からひょっこり顔を覗かせたのは、妻と称すべき女性だ。かつては美しく化粧の施されていた顔が、今は煤だらけになっている。
「何を、しているんだ?」
 声が掠れたのは、当然と言うべきか。否、冷静に問えただけ自分を褒めたいところだ。
「随分とその、騒がしいが」
「ごめん。ちょっと部屋の模様替えしてたら止まらなくなった」
「変えるほどの何かがあったのか?」
「あった! ありまくりだ!」
 一番軽い藤編みかごを横に退け、力説するように妻――ステラが拳を振り上げる。
「悪いけど、これでも我慢してた方なんだ。ごってごての少女趣味の部屋に」
「ごてごて……」
「レースのフリルだらけのクッション! 黒とピンクの彩色の衣装棚! 刺繍のせいで重すぎる掛け布団! ……悪いが、急遽客間のものと変えさせてもらった」
「で、この有様か」
「ごめん」
 騒がしく平穏とはほど遠い状況だとは自覚していたのだろう。細い首をさらけ出すように勢いよく頭を下げ、ステラはレスターに謝罪する。気に障ったのなら首を斬れというような体勢だ。
 さすがに苦笑して、レスターはステラの華奢な肩を軽く叩いた。
「いや、家の中を変えるのは構わないが、さすがにもう日も暮れた。明日にした方がいい」
「うう」
「旦那様」
 呻いたステラとは反対の方向、つまりレスターの背後から恭しい様子でしっとりと落ち着いた声をかけたのは、家の中のことを一手に任せているユーリアンだ。彼をバトラーと呼べるほど大した規模の家ではないが、それに近い仕事を長年勤めていてくれる老僕である。
 彼は外套を羽織ったままのレスターから雪の粉のついたそれを受け取り、目の前の惨状など何もないかのように食堂へと促した。思わず突っ込みかけた言葉を飲み込み彼の後に付けば、家具の山を乗り越えたステラがそれに続く。夢中になって夕食を摂りそびれていたか、家族は出来るなら一緒に食事をするべきだという考えを実行に移しているだけなのか、――おそらくは両方と見るべきだろう。
 会話の場所を食堂へ移したレスターは、互いが席に着いたのを確認してから、ゆっくりと口を開いた。
「それで? 随分元気なようだが体調は問題ないのか?」
「ああうん。それは全然。前みたいによくわからない発作が起こったらどうしようとか思ってたけど、今回はないみたいだ」
「――あれは、相当苦しそうだったからな」
「苦しいっていうか、脱力感の方が酷いんだ。今は単に体力が無くて苛々するだけかな」
「それは仕方ない」
 他人が聞けば首を傾げるような会話にも随分と慣れたものだ、とレスターは思う。ユーリアンは判っているのかいないのか、こうした会話の最中に口を挟んでくることはない。
(何も言わないというよりは、状況良ければ全て良しという感じだが)
 レスターの妻、ステラには秘密がある。とは言え、ゴシップのネタになるようなものではない。言えば間違いなく失笑を買い、胡散臭い医者を紹介されるような内容だ。
(ステラの体の中には別の人間が居ます、か)
 吹聴する姿を想像し、レスターは自ら莫迦にするような笑みを浮かべた。口にすれば尚更空々しい。
 だが到底信じられない空想家の妄言と、信じざるを得ない現実が同時に突きつけられたのであれば、後者を直視すると断言できる程度には彼は柔軟な思考の持ち主だった。
「安定したと言ってもまだひと月だ。無茶はするなよ」
「判ってる。これで不慮の事故かなんかで死んでしまったら、今度こそトロイに愛想尽かされるからな」
 ステラが口に出す「トロイ」という名は、「導き人」という死に神のような存在の男のことだ。
「それに、ゲッシュに会わせる顔がない」
 ふたりめ、「ゲッシュ」というのも同じ存在――だった、と言うべきだろう。
 彼らのことを知り得た、実際に目にしたときのことはレスターも今も尚よく覚えている。陳腐な言い方をすれば、正に運命のという助詞を付けるべき一日のことだ。
 特捜隊の皆を解放し、オルブライトを医者の元へ運び、ハウエル法務長官の代理人へ事情を説明し、ある程度の事後処理を済ませて戻ったレスターを迎えたのは、変わらず眠り続ける妻と、――光る球体だった。時は既に深夜に差し掛かっており、淡く小さなとは言え、暗闇を照らす存在を直視することは困難だったことも忘れがたい記憶だ。
 疲労と睡眠欲に判断力が低下していたことが、逆に超常現象を受け入れられる要素となったのかもしれない、とレスターは今となって思う。
 彼が部屋に入るや、光球は眠る女の上から離れ、丁度目線の位置へと浮上した。そして、闇の侍る宙に文字を描き始めたのだ。

 ――我が友を頼む。

 切れ目のない光が綴る文字は、楽に読めるとは言い難いものであったが、予測で理解できないほどではなかった。
 理解しが難かったのはその内容だ。
 これまでクリストファーの体には、クリスティンの魂が入っていたこと。
 クリスティンは、クリストファーの魂の持つエネルギーを使って活動していたこと。
 今は、死ぬはずだったステラの体にクリスティンの魂が入っていること。
 今のエネルギー源は、ゲッシュという、肉体のないエネルギーの塊であった導き人であること。

 目覚めたステラ――クリスティンから聞いた事情もそれに相違なかった。
「死のう、そう思った瞬間に、誰かが全身を押しのけてくる感じがあったんだ。そのすぐ後にその場所から強制的に押し出される感じがして、……。たぶんあれは、兄様の体にゲッシュっていう別の人間のエネルギーが入ってきて、反発が起きたんだと思う」


[]  [目次]  [