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 (序章)

 目覚めたとき、目の前は金色の靄に包まれていた。
 眩しい。しかし、眩むほどではない。二日酔いの頭で、しかし常日頃の習慣に合わせて朝早く起きてしまった夏の休日の朝、――そんな状況に近いだろう。
「……ですから」
 ぼそぼそと、妙に遠くから聞こえる声に、しつこく睡眠を要求する脳をどうにか起動する。壁の薄いアパート、そして派手好きな隣人を持ってしまったのが運の尽き、独り暮らしのくせに、人の声が目覚まし代わりになってしまうのはどういうことか。
 意味もなく苛立ちを覚えながら、体を反転させる。起きる前に布団の柔らかさを堪能したいという本能からの行動だったが、不覚にもそれは、一瞬で眠りの縁から引きずり落ちる要因となってしまった。
 パシャリ。
 丁寧にもそんな擬音を立てて、水飛沫が跳ねる。頬にかかる水滴、いや、うつぶせになった体の前半分に染みる生暖かい水、これは一体どういうことか。自慢にもならないが、安アパートの風呂場には、寝るスペースは勿論、足を伸ばしてくつろぐ広さもない。
(水漏れ!?)
 慌てて跳ね起きる。考えられるのはひとつしかない。風呂桶に湯を溜めている間に隣接する台所兼通路で寝てしまったのだろう。風呂場には当然排水溝というものが存在するが、タオルか石鹸か、何かが詰まってしまえば流れる水は行き場を失う。流れ出る先はアルミの安っぽい扉を隔てた台所というオチだ。
(損害保険、連絡しなきゃ……!?)
 肘を突っ張り一気に体を起こし、――しかしその途中、急に腕、否全身の力が抜けた。あ、と思う暇もない。締め付けられるような頭痛と例えようもない脱力感、もしくは倦怠感が急激に襲ったのだと気付いたのは、再び水面に頬を叩きつけた後だった。
 昨夜、そんなに呑んだだろうか。
 原因をこじつけて、ぼんやりと昨日を振り返る。しかし、仕事で疲れて帰ってきたこと以外は思い出せなかった。では、せめて状況の確認をと視線を転じても、いっかな、はっきりした像を結ばない。そこまで、視力は悪くなかったはずだ。
 おかしい。
 本格的に、焦りが生じてきた。一面の水はともかくとして、こうも体の調子がおかしいのは何か病気に罹ったとしか思えない。頭は大丈夫だ、意識ははっきりしている。だがどうにも思うように動けない。
 脳出血ではないだろう。胸痛もない、脈の乱れもないとすれば、心臓の方もおかしくはない。それでいて体だけ異変が起こっている状況といえば、脊椎の病変だろうか。いやしかし、それだと目の異常の説明がつかない。
 具体的に考えてしまったのは、職業病だと言っていいだろう。何を冷静に分析しているんだと思わず苦笑する。
(救急車、誰か呼んでくれないかな……)
 出勤日であれば、無断欠勤を訝しんでくれるはずだが、あいにくと今日は休日だった。急な欠勤で迷惑をかけることもないが、こういう状況はさすがにありがたくない。
「……あー……」
 叫べば、アパートの住人の誰かは気付くだろう。そう思い至って口を開け声を出そうと試みる。しかしもれたのは一本調子の音、言葉にはならなかった。70%は空気の抜けるような音といった方がよいだろう。舌も唇も、思ったように動かない。
 さすがに絶望を感じ、僅かに起こしていた半身を水の中に埋める。先だって倒れたときと同じく、殆ど衝撃を感じなかったのは、痛覚にも異常が生じているということだろうか。痛みはないに越したことはないが、それ自体が異常だとすると全く嬉しくもない。
 死ぬのかな。
 そう思った矢先、ごく近くから水音が生じた。あきらかに、自分が作ったものではない。
「目覚めましたか」
 しわがれた、低い声。相当年配の男性だということは判った。だが、人が死にかけているのにその落ち着いた声はどういうことだろうか。
(ご託はいいから救急車呼んでよ!)
 救命率は一分一秒で恐ろしいほどの差が生じる。
「……ふむ。まだ不完全ですな」
(なに、それ)
「まぁ、少しはまともな姿になりましたな」
「これなら、なんとかなりましょう」
 もうひとり居たようである。だがいっかな、助けようとする気配はない。
「まったく、現れたときの様相ことと言ったら!」
「思い出しても身震いが出ますな。しかし、なんでこんなのが来たのやら……」
「いやいや、案外、似て無くもありませんからな。どちらにせよ、やってはみるものですなぁ」
「ふむ、まぁ、いずれにしても、安定までもう少しかかる様子」
 言葉は分かる。だが、内容は全く意味不明だった。考える材料としては乏しいが、なんとなく、ここは自宅ではないのだということは理解した。無理矢理納得のいく結論を導くとするならば、何かの手違いで連れてこられたと考えられ、――なくもない。
(でも、どこだ、ここは……)
 遠くに見える何者かの足に問いかけるように、必死で首を伸ばす。
「おや」
 水に、波紋が加わる。
「今の状況で起きているのは、辛いでしょうな」
「ふむ、そうですな……ルエロどの」
「……承知した」
 ざわり、と空気が揺れた。視界を取り巻く靄が急速に渦を巻く。
「いま少し、眠りの縁に居れ」
 悲鳴は上げられなかった。喉の奥から大量の空気が吐き出され、虎落笛のような音が響く。
 自分の発したものだと気付いて1秒。
 再び、視界は闇に落ちた。

 *

 そして、次に目覚めたとき、――絶望を伴った現実を知る。
「ようこそ、選ばれし者よ! 貴方は大変名誉な役目を与えられるためにやってきたのだ!」
 演技のような笑顔で語る男の後ろ、蒼褪め、震えながら、女たちが痛ましそうな目を向けていた。


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