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[船上にて] ギルフォード、フェルハーン
*時系列としては本編17-21の間の話ですが、内容はいろいろと意味不明です。本編と番外編「運命の残滓」を読み終わった後にお読み下さい。


 夜の気配を帯びた強い風を頬に受け、ギルフォードは遙か先の海岸を睨むように目を細めた。小振りな船の舳先は鋭く水を掻き分け、船首に近い甲板に立つ彼の着衣の裾を湿らせている。
「状況はどうだ?」
 マストに凭れるように行儀悪く腰を下ろし、欠伸をかみ殺しながらフェルハーンが問いかける。如何にも呑気なその様子に眉を顰め、しかしギルフォードはすぐに頭振った。
「順調です。もともと弱いながら追い風でしたし、抵抗も出来る限り脇に流しています。余程の事故がない限り、あと数時間で到着します」
「そうか。――たいしたもんだ」
 大きく伸びながら、どこかぼんやりと、素直な言葉を口にする。常に周囲の動向に眼を光らせているフェルハーンには珍しいことだが、かなり力を抜いているらしい。
 無理もない、とギルフォードは彼に気付かれぬようにため息を吐いた。上手く隠しているようだが、フェルハーンは確実に何らかの怪我を負っている。おそらくは、コートリアから戻る行程で、追っ手と戦った際に受けたものだろう。彼は人並み以上に頑丈で健康な成人男子だが、魔法使いに比べればやはり、回復の速度は遅い。国土の西に東に駆け回って尚、倒れずに進み続けていられるのは、彼自身の巧みな力配分あってのことである。
 万能、或いは驚異的な活動力の源はけして無限ではなく、故に、彼が休むと決めた時間を邪魔立てするほど、ギルフォードは意地悪くも無神経でもなかった。魔法を加えた強い追い風を遮断すべく、フェルハーンの周囲に薄い結界を展開する。
 気づき、彼は顔を上げた。
「いいよ、魔力の無駄遣いだ」
「では、船内でお休み下さい」
「風が気持ちいいんだよ。それに、一度深く休んだら、肝腎なときに頭が働かなくなる」
「逆だと思いますが……」
「いいんだよ。どうせ、あれこれ考えて、頭は休めないんだから」
 僅かな自嘲を含んだ声に、ギルフォードはちらりとフェルハーンを一瞥した。
 事件は、おそらくは収束に向かっている。グリンセスは打撃を受け、コートリアは独走していた団長が沈み、ザッツヘルグの介入でセーリカは反対に孤立することとなった。密かに組まれていた手は、完全に明るみに出る前に解き崩され、それぞれが処断を待つ状況となっている。
 探り、騙し、説く、そんな駆け引きがその後を大きく左右する段階は過ぎたのだ。後はもう、援護勢力をなくしたエレンハーツとヒュブラ、この、現国王に叛する勢力を結びつける要となっていたふたりを捕らえれば、全ては終わる。
 なのに何故、フェルハーンは今も考え続けているのだろうか。腕を組み、瞼を伏せ、警戒しながらも意識を沈める、戦場でよく見かける眠り方をして休む男には、どこか、普段にはない憂いがある。
(生きることを強要した罪、か……)
 むろん、いつ、どんな状況で誰に対して犯したものなのか、ギルフォードには知る由もない。加えているならば、死ねと脅迫するのなら判るが、生きろと強く押すことのどこが罪なのか、彼には理解できなかった。死んだ方がマシだという状況に置き、それをいたぶり楽しむ性癖でもあるのなら別であるが、フェルハーンはそういった意味で言ったのではないだろう。
 思い、しばし後にギルフォードは短く息を落とした。考えたところで答えの出るものでもない。
「……まったく」
 喋っていても、黙っていても、どちらにせよ、フェルハーンは人を煩わせる。
 ごく小さな呟きだったが、彼の意識を浮上させるには充分だったようである。眠りの縁に片足を置いたまま、少しぼんやりした目を向けて、彼は僅かに首を傾げた。
「何が?」
「何でもありません」
 会話の糸を切り落とす言葉に、フェルハーンはただ目元の力を緩めて口を閉じた。普段であれば意味もなく食い下がってくる事をそれだけで済ませた現実が、彼の心の一部がここにはないことを明らかにする。
「静かにしていますから、殿下は休んでおいて下さい」
「休んでるよ」
「……お断りしておきますが、私の魔力は、目的地に到着する頃には底を尽きますから、それ以降はあまり役に立ちませんよ」
「今、船を動かしてもらっているだけで充分だ。護身の力くらいは残すんだろう?」
「一応は」
「一応?」
 そうして、フェルハーンはギルフォードの腰から足下を視線で辿る。
「だから珍しく、剣まで持ち出したのか?」
 普段、ギルフォードが長剣を腰に剣を佩くことはない。何年も前に騎士団に所属していたこともあり、人並み以上には剣をよく扱うが、日常において、護身の為に持ち歩くには些か邪魔であるからだ。
 それを前提に、フェルハーンは当たりをつけたのだろう。だがギルフォードは、否定も肯定もせず、微苦笑を口の端に乗せた。
 この剣は、護身の為に持ち出したのではない。――積極的に、人を傷つけるために、使うために身に帯びているのだ。
 その、わかり易い表情の裏を読み取り、フェルハーンはやや気色ばんだ目でギルフォードを見上げた。
「本分は魔法使いだけどね、君と違って、彼はまだ現役だよ」
「判っています。ただ、私も騎士団を退団したからと言って、ふぬけてたわけではありません」
「それはまぁ、身のこなしを見ていれば判るが」
 武器を扱い慣れない人間は、構えるまでもなく持った時点ですぐに判る。
「実戦には、しばらく関わってないだろう?」
「いえ。ここしばらく、勘を戻すために出かけてましたよ」
 ほう、と声が上がる。
「充分鍛えてるつもりでしたが、やはり、訓練と実戦は別物だと知らされましたからね。実際、反射的な動きへの反応は、現役時代よりも鈍くなっていましたし」
「……何か、あったのか?」
「ひとつ間違えば、もの凄く深刻な状況がありましたよ。アッシュさんにお世話になった件です」
「ああ、あれか」
「魔力には限界がありますから。いつ安全圏にたどり着けるか判らない状況で、むやみに使うわけにはいきません。そうなるとやはり、そういった欠点を補う意味で、体を鍛え、実戦をもって備えておく必要が生じてきます。個人で研究をしている魔法使いであればともかく、国の援助を受けている研究機関に所属している以上、どんな危険な場所に行く命令を受けてもおかしくありませんから」
「不思議な奴だな」
「はい?」
「研究の為に軍を抜けておきながら、思考手順は優等生の軍人のままで、そのくせ、最高権力者であるはずの国王を怒鳴りつけるくらい、上下関係に頓着しないところがある。真面目で良い子ちゃんの癖に、物騒なことも考える」
「……真面目でも優等生でもありませんよ。たぶん、やっていないことを、できないという理由にしたくないのです」
「それを、優等生というんだけど」
「違います。単に、臆病なだけです。できるだけ、後悔したくない。だから、少しでも成功や安全の確率を上げるために、自分が安心できるようにがむしゃらになっているだけの、弱い人間です」
 皮肉、というよりも戒めを込めた言葉に、しかし、フェルハーンは緩く頭振った。常には、人に必要以上に深入りしようとしない彼だが、やはり今夜は、どこかが違う。
 一瞬落ちた沈黙に、波と風の音が響く。
「本当に臆病なら、はじめから、後悔するようなことに関わらない。自分は動かず努力せず、手の伸びる範囲という安全圏から出ようとはしないだろう。できないことは出来ないまま、出来ることだけをやって、出来ないことからは目を閉じて耳を塞いで、その必要性が生じたら、その時は逃げる。そんな人間は、多いよ」
「そうは、思いません」
「多いと仮定して」
 強引に、フェルハーンは話を繋ぐ。
「そういった人間が最終的に、自分を満足させるために、何をするか、判るか?」
「満足、ですか……?」
「そう。自分は先に進まない。進めない。自己満足の中に全部収めて、先の世界から目を逸らして、でも、それじゃ、結果も成長も感じられないから、心底満足は出来ない。充足しない。その心を慰めるために、何をすると思う?」
 ギルフォードは、喉を詰まらせた。答えが判らないのではない。判るからこそ、答えたくない、そういった思いに口を引き結ぶ。
 そんな彼の様子を読み取り、フェルハーンは目を眇めて嗤った。
「下を作るんだよ。自分より明らかに劣っている存在をこき下ろして、自分は上だと錯覚する。アレに比べればマシだ、アレよりは良い。そうして、成長した気になって満足する」
「殿下」
「そんなことをして、後で、恥ずかしくなるのは自分だというのにな」
 低い、陰気を持った笑みが、フェルハーンの表情を覆う。根の深い後悔、そう、ギルフォードの目には映った。居たたまれずに目を逸らし、黒い水面に目を落とす。
 フェルハーンは、明らかに人よりも恵まれている。容姿然り、才能然り、生まれも、これ以上はない絶対的な地位が確約されているのだ。羨ましく思われこそすれ、彼自身に、卑屈になるほどの劣等感など持ちようがないように、ギルフォードは思う。
 だが、この、今のフェルハーンから感じる、圧倒的な罪の意識。彼自身が言った――彼のつけなければならない決着の重さを思い、ギルフォードは緩く頭振った。
「殿下。私にはやはり、人はそんなにひどい生き物であるとは思えません」
「――まぁ、こういった思想の違いは、昔から論じられているからね。君が言うことも、間違ってはいないんだろう」
「いえ、殿下。そうではなく……」
 言葉を切り、言葉を選ぶ。
「人は、成長過程で誰しも、自分中心の考えから、周囲との調和を含めた思考へと移行する時期があると思っています。自分が良ければいい、自分が一番偉いのだと、自覚なしに行動している精神的に幼い時期、誰しも、殿下の仰ったような自己満足で過ごしているのでしょう」
 驚いたように顔を上げたフェルハーンが、視界の端に映る。
「そのままで体だけ大人になるものもいるでしょう。でも、殆どの人には、自分も周りの一部だと気付く日が来ます。そうして、いつか、かつてのそんな卑屈な感情に気付き、恥じたときに成長するのだと思います。恥じたことこそが、成長の証だと思います。後悔はけして、無駄なものではありません。恥じるべき事に気付いたこと自体、ちゃんと、前に進んでいる証拠なのです」
「――だとしても、やったことは消せない」
「そうですね。だからこそ後悔は重く、延々と人を苛みます。私は臆病ですから、重い後悔を背負わないで済むように根回しします。ですが、悩まないわけじゃありません。私は、悩みも悔やみもしない人を、信用したりはできません。過去の重石を抱いて、それでも進もうとする人の轍ほど、貴重なものはないと思いますよ」
 フェルハーンの唇が、何か言いたげに、微かに震える。いつになく迷いを含んだその様子に、ギルフォードは、彼が今抱いている業の深さを思った。もしかしたらフェルハーンは、更に罪を重ねるために今、離宮へと向かっているのかも知れない。
 過去に何があり、それが現在にどう影響を及ぼしているのか。問うてみたい気とは裏腹に、今知るべきではないと警鐘が脳裏に響き渡る。その直感に従い、ギルフォードは短く息を吐いた。
「まったく……」
「?」
「らしくありませんよ。貴方が傲慢でいてくれないと、私も調子が狂います」
「……君、ね」
「私が賭に勝ったら、全部教えてくれるんでしょう?」
「まぁ、約束したからね」
「その時、たっぷり懺悔は聞いて差し上げますから、今は、……少しでも、休んでいて下さい」
 静かな声に、フェルハーンは何度か瞬いたようだった。彼を慰める日が来るなど、思ってもみなかったギルフォードの心境もまた、些か複雑なものがある。つい数ヶ月前、焼け落ちたルセンラークの村跡で、フェルハーンは誰のことも信用していないと再認識した事が、いやに遠い日の出来事であったように感じられた。
 ――ただ、深入りしてしまったことに対しては、殆ど後悔していない。
「貴方にしか出来ないことがあるのなら、どう結論を出すのであれ、誰も貴方を責めたりはできませんよ」
「……」
「だから、ここは私に任せて、休んで下さい」
 沈黙が落ち、ただ風を切る音が響き渡り、舳先が勢いよく波を割る。進み続けるその先は深く暗く、終着点にはまだ遠いだろう。
 やがて、フェルハーンは、ゆっくりと立ち上がった。服に付いた泥を払い、体を伸ばす。
「すまない。少し、寝てくるよ」
「はい」
 振り向いたギルフォードを避けるように、フェルハーンは背を向けた。けして新しくはない木の板が彼の歩調に合わせて軋み、僅かに船体が揺れる。やがて、船室へと続く扉の閉まる音が、微かに後方に流れて消えた。
 残されたギルフォードはひとり、立ちつくす。
「……人のことを構ってる場合じゃ、ないんですけどね」
 自然と付いて出た苦笑。
 この先に、決断すべき事象が待ち受けているのは、何もフェルハーンに限ったことではない。ギルフォードもまた、彼が示唆したものと対峙しなければならないのだ。曖昧に示された賭けの内容は、今は、向かう先を聞けば判りすぎるほどに明らかだった。
 ゆっくりと髪を掻き上げ、後方に滑り落ちる指先に従い、ギルフォードは顔を上げる。
 そうして闇の中、誘うように紅く歪む一点の光を見据え、ただ強く、口を引き結んだ。

(了)




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