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「例えば、予期せぬアクシデントがあった場合には、私が死んでも、どんな目に遭うことになっても違約金など必要ない、という契約で、とか」
「それは……」
 息を呑み、男はずり落ちた眼鏡を慌てて押し上げた。
「しかし完全に身の安全は保証できませんよ? 同行者がむしろ貴方を危険にさらすかもしれません」
「それでもいい場合は?」
「通常の依頼とは別に、フリーの依頼板があります。あらゆるランクや依頼を受ける人の人格、経歴などを問わないものです。そちらは組合は依頼する場所を提供しているだけで、どんな保証もしない決まりになっています。そのため、組合に入れる分の金額が引かれるので安くもなりますが」
 目的が達成されずとも、最悪騙されて金を奪われたとしてもどこにも訴えることはできない。場合によってはむろん、通常よりも遙かに安い金でいい仕事をしてもらえることもある。どんな人物に当たるのかは運次第。故に通常は、何があったとしても諦められる程度の依頼や、組合に頼らずとも被害を被らないだけの対応が出来る者だけが利用する。テアのようにせっぱ詰まってのものは、大概ろくな結果にならないというのが常識だ。
 だが、それでも、とテアは繰り返した。
「構いません。依頼を掲示したいのですが、どうすればいいですか?」
「こちらの紙に必要最低限の記入項目が書いてますが……」
 一枚、テアに渡しながら男は、本当にいいのか、と探るような目を向ける。
「本っ当に何があっても知りませんよ?」
「判っています」
 本当は判っていないのかも知れない。心の中で自分を疑いつつ、テアは必要事項を記入していった。
 どれだけ覚悟していても、それを上回る現実に直面すればやはり自分は苦しみ、後悔するのだと思う。だがきっと、歴史の流れに押されるがままに目的も判らない人生を送ることもまた、違う種類の苦痛に過ぎない。
 ペンを置き、眼鏡の奥を覗けば、男はため息をついたようだった。
「一応、もう一度行っておきますが――」
「ヒューイ!」
「――、――なんです、騒々しい」
 重ねかけた言葉を切り、受付の男、ことヒューイは眉間に皺を寄せた。
「今、他の方と話しているんです。少しは待てないんですか?」
「待てねぇから呼んでんだ!」
 急ぎの用、というよりは強引な忙しなさが彼のスタンダードなのだろう。諦観の域に達したようなヒューイの顔を見れば、なんとなしに判る。当然、彼らの中に入っていく気力もなく、テアは引き気味の姿勢でヒューイに早口に告げた。
「やり方は判りました。ありがとうございます」
「え? いや、その、ごめんだけど――」
「ヒューイ!」
「ああもう、判ったよ!」
 最後には怒鳴り、ヒューイは渋々といった呈で席を立った。一応世話になったとそれを見送り、テアは件の依頼板に向かう。
 組合の管理する掲示板よりも古いそれには、乱雑に用紙が貼られていた。既に黄ばみ文字すら判じ辛くなっているものから新しいものまで、新旧問わず埋め尽くしている。依頼の要旨すら見えないほど重ね貼りされているあたり、依頼人すら忘れているものも多々あるに違いない。
 管理する組織がないとこうなるのかと半ば呆れながら、テアは人目に付きやすい場所を選んで用紙を貼り付けた。そうして何度も記述に誤りがないか、問題はないかと確認し、所在なげに立ちつくす。
 こういう場合は、何かに祈るのだろうか。そう考え、何に、と苦笑する。祈りが何かを解決することなどないと身をもって知るテアは、こういうときに拠るべき場所が判らない。自分に出来ることをやり尽くした後、運がその先を決めるまでの間、それはどうにも苦痛な時間であるようだった。
 しばらくの間その場に止まっていたテアは、ふと落ちてきた諦観に緩く首を振った。
(……行くか)
 とりあえず今日ばかりは店の小屋が使える。工事の手が入っていないため、がらんどうとなった荷物置き場でどうにか寝泊まりが出来るのだ。
 半ば俯いたまま踵を返し、一歩足を踏み出したところでテアは額に軽い衝撃を感じた。誰かが、丁度前に立っている。
「あ、すみません」
 相手の両足は揃っている。つまりは動いた方、この場合テアの方が悪い。慌てて謝り、テアは相手を確かめるべく顔を上げた。
 だが。
「――”完全なる蒼”?」
「!?」
 見上げたその人物の口から発せられたのは、思いも寄らない言葉だった。
 完全なる蒼。それはテアの故郷に古くから住まう一族が持つ目の色を指す。具体的に言えばシドラ王家の血筋が受け継ぐ美しい蒼い目のことで、当然、テアが持ち得るわけもない。元シドラ国民とは言え、同じく青に属する目の色を持っているとは言え、語りぐさになるほどの美しさとは似て異なるものだ。
 冷静に考えれば、勘違いを指摘するだけで済んだだろう。だが、ひとめで強制移入民だと気づかれた衝撃は、テアの中にある劣等感を激しく突き上げた。
「違います!」
 声高に否定し、相手――男の体を押しのける。
 むろん普段、移民と指摘されたからといって、ここまで感情が昂ぶることはない。だが、昨夜見た夢が過去を現在地まで引き上げ、故郷へ行くということすら困難な現状がくすぶっていた望郷の念をかき混ぜ、最後に男の言葉が起爆剤となった。
「何が言いたいんですか!?」
「いや……」
 言葉を濁した男は、ばつの悪そうな顔で頭を掻いた。
「そう思っただけだ。悪い」
「思っただけ? 普段からそんなこと、気にしてるんですか? 何か拘りでも?」
「済まない」
 言い、軽く頭を下げる男を見つめ、テアは肺腑を空にするほどの息を吐いた。更に罵りたくなる言葉を飲み込み、説明しようのない感情に震える手を無理矢理に押さえつける。
 世の中には、否応なく巻き込まれた戦で生まれた立場的弱者を、あからさまに見下す者も存在するのだ。それが覆しようのない事実であることは確かだが、周知されるのは好ましくない。特にこういった公共の場では、誰が聞き、それをもとにどんなトラブルが発生するか予測が付かないのだ。
「浅慮だった。本当に済まない」
「……幸い、周りに聞こえたのは私の声だけみたいですけど。気をつけてください」
「今後そうする」
 相対する男の目は真摯だ。少なくとも、悪い方向への含みがあっての発言ではないだろう。
 もう一度ため息を吐き、テアは肩の力を抜いた。
「私も言い過ぎました。それについては謝ります。――では」
「待って」
 男の発言がそう大きくなかったのは幸いだが、テアの過剰反応のために周囲からそれなりの注目を集めてしまっている。殆どが興味本位の代物で一過性の現象に過ぎないが、あまり気持ちの良いものではない。
 早くこの場を去りたいのに、と若干の苛立ちを付加しながら、テアは睨むように振り向いた。
「まだ何か用ですか」
「あんたの貼った依頼書はどれだ?」
「何故、それを?」
「何をしているのかと見てたからな。詫びだ。力仕事なら受けてもいいし、違うならそれなりの知り合いを紹介してやることもできるが」
 思わぬ言葉に、テアは目を見開いた。渡りに船、禍転じて福と成す、――いや、都合が良すぎる、と取るべきか。
 今度こそ本当に裏があるのではと予測し、テアはいつでも逃げ出せるようにと半歩足を引いた。
「随分、気前のいい話ですね」
「まぁ、その反応は当然だろうな」
 苦笑し、男はズボンのポケットから革の薄いケースを取り出した。眉を顰めそれに目を遣り、次いでテアははっと息を呑んだ。
 派遣組合の登録証明書。表示ランクは――”5”。
「名前はカイ・リーデル。そこの依頼用紙を剥がして、受付に持って行きな。あんたの条件と言い値で組合を通した依頼を受けてやる」



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