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 (2)

 我ながら図太い、と思いながらテアは大通りを走っていた。倉庫の硬い床の上で鳴り続ける空腹の音を聞きながら、しっかりと熟睡してしまったのだ。結果、待ち合わせよりも早く行こうと思っていた時間はかなり短くなっていた。
 遅刻するというほどでもないが、やはり時間ぎりぎりというのは好印象にはなりえないだろう。見るからに神経質、という印象はなかったが、人間どこに重きを置いているかなど案外判らないものだ。
(いや、大雑把なんだろうけど)
 慌てながらも昨日のやり取りを思い出し、テアは短く苦笑した。
 結論から言えば、カイと知り合えたのは最大級の幸運だったと言って良い。なにせ、ギリギリのランクながらヒューイの言う条件をクリアした人物である。名前の示すとおりルベイアの出身ではなく、各地を転々としていたためか、イルラの立場に偏見を持たないところもありがたい。
 うまい話には裏がある、というのは真実の痛いところを的確に突いた言葉といえるが、この場合はそれを棚に上げてもいいかという程度には信用してもよいかというのがテアの決断だった。むろん、組合という安全性の高い保証がついていることが大前提となる。
 正式に作成した依頼内容は要約すれば「テアを安全に指定場所――故郷であるシドラ地方の山麓の村、ダーレまで案内し帰還させること」というものになった。実際には他にも箇条書きで注意事項や契約金などの詳細が記入されていたが、テアにしてみれば大前提さえ守ってもらえれば言うことはない。
 投げやりなのか、それほどまでに未来に希望がもてないのか、テア本人にも判らないことだが、不思議と、それでどうなろうとも後悔はしないだろうという確証があった。
 興奮と昂揚とその半分ほどの不安を抱え、テアは走る。だが、その若干浮ついた気持ちは長続きはしなかった。
 途中、街を東西に分ける川にさしかかったときである。川岸に人が集まっているのを見つけ、テアは思わず足を緩めた。すれ違う人の話を盗み聞けば、どうやら明らかな外傷のある死体が見つかったらしい。
(物騒……)
 平均すれば治安は良くとも、区域を分ければやはり闇は存在する。テアが現状を歯がゆく思いながらも飛び出せない理由はそこにある、と言っても差し支えないだろう。宿屋の一家という保護先があるとないとでは大違いなのだ。女には尚更不利が多い。
 どことなく沈みかけた気持ちは、死体発見現場を下に見る橋を渡っているところで更に下降した。
(あれもひとつの我が身、か)
 ふたつの死体に掛けられた布、そのうちのひとつ、そこから大きくはみ出ていた衣服に見覚えがあったのだ。宿屋の主人から休暇を言い渡されたその晩に、食事をせがまれ与えた浮浪者だった。あそこまで年季の入った襤褸はさすがに珍しく、故に間違えようもない。
 謂われのない暴力に遭ったか、何かのトラブルに巻き込まれたか、食事を乞うて手ひどく扱われたか。どれを考えても弱者、もとい移民者には厳しい街と言える。
 ため息を吐き、陰鬱な気分を追い出すように頭振り、テアは橋を渡ったところで再び足を速めた。そのまま真っ直ぐに進めば待ち合わせの門が見えてくる。その先に通じる街道自体の治安が悪い為か、あまり行き来する人はいなかった。
 思えば、何年も前にこの街に連れてこられたときもテアは同じ門を通っているのだ。だが、全く記憶にはなかった。積めるだけの人間を積んだ馬車の中にあって、それを眺める余裕などは全くなかったに違いない。故に今更ではあるが、案外に立派な門だったのだと見上げて息を吐く。
 おそらくは建国以前から在ったものなのだろう。古く、歴史を見続けたものだけが持ちうる重さをもって通る人々を睥睨している。
 振り返りながら門を過ぎ、左右を柵に囲まれた検問所のところで立ち止まったテアは、不安と不思議な高揚感を交互に感じながら左右を見回した。
「早かったな」
 気負ったところのない静かな声の方で、片手を上げる男が居る。
「準備は出来たのか?」
「あ、は、――はい」
「昨日はちゃんと休めたか?」
「はい、それはもう、ぐっすりと」
 言えば、男は目を細めてテアの頭を撫でるように手を置いた。あきらかな子供扱いではあるが、旅に関しての経験値の差を思えば致し方ないとも言える。請負人と依頼人という立場を思えば本来不適切な態度ではあるが、テアたちの場合は旅人とその荷物と言った方が早いため、文句の言いようもない。
 テアの半分ほどの荷物を背負ったカイは、昨日とは違い、腰に剣を帯びている。無駄な装飾は一切無く、実用一辺倒のそれに目を走らせ、テアは知らず唾を飲み込んだ。
 気づき、カイが苦笑する。
「……これが必要にならないことを祈っているが」
「よろしくお願いします」
 強く同意しながら、改めて頭を下げる。
「ところで、どうやって行くんですか?」
「いろいろ方法はあるが、――そうだな、馬は乗れるか?」
「ちょっと走らせる、程度ですが」
「へぇ?」
「聞いておきながら、なんで驚いてるんです?」
 胡乱気に問えば、カイは誤魔化すように笑みを浮かべた。ようするに、肯定の返事は想定外だったのだろう。では何故聞いたのかといえば、おそらくはテアが承諾を渋るような方法を納得させる為だったに違いない。
「悪い。まぁでも、それなら楽ができる」
「断っておきますけど、あくまで昔よく乗ってたのは子馬や荷運び用の小柄で重心の低い馬ばかりで、今だってたまにゆっくり歩かせて荷を運ぶ程度です。均された道を少し走らせるのが精一杯ですよ?」
「大丈夫。じゃあ、とりあえず検問所を通るぞ」
 安請け合いの気もするが、カイがそう言い切るならばテアに反発する余地はない。肩を竦めて荷物を抱え直すと、テアは広い背中の後を追った。
 城門から見える範囲になる検問所は、審査を受ける人でごった返している。だがカイはその人の群れには向かわず、商人たちが特別通行証を持って抜ける方へと足を向けた。こちらは中途半端な商売に向かうにも出るにも時間帯だけあって、並ぶ者も片手に余る。
 さほど待つこともなく順番は巡り、ルベイアの軍服に身を包んだ男がぞんざいに手で招いた。
「はい、次、――って、カイか」
 顔見知りであるらしい。
「久々だな。仕事か? 今日も南か?」
「ああ。通るぞ」
「待て待て」
 確認もなしに通り過ぎようとしたカイを捕まえ、男が慌てた様子でテアを示す。
「お前ひとりならいいが、この子は別だ。連れでも身分証明はしてもらうぞ」
 言葉に、テアはびくりと体を震わせた。
(そうだ、忘れてた……)
 まだルベイア国に戸籍を持たない彼女は、当然の事ながら証明書など持っていない。同伴者さえいれば街の外に出る許可は与えられるとは言え、身元引き受け人である宿屋一家以外が連れである場合は、あくまでそれも自己主張ということになる。


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