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 (3)

 やや曇りがちな空を見上げて、テアはほっとしたように息を吐いた。空気が乾いていることを思えば、雨にはならないだろう。であるなら、体力の消耗を加速させる快晴よりも、むしろ歓迎すべき空模様である。
 灯り取りの窓から差し込む光に気づいた時には、既にカイは部屋から消えていた。きちんとたたまれた毛布とかさばる荷物が置いてあったことから、近辺にいるのだろうとは判っていても、どこか申し訳ない気持ちが先に立つ。ぐっすりと眠れた自分をよくやったと思う反面、やはり図太く――ずうずうしいのだと赤面する。
 聞こえないほどの文句を口にしながら井戸の水で顔を洗い、テアは強く頭振った。次いで、己に発破を掛けるために頬を叩く。直前で力を緩めてしまったのはご愛敬か。だが、僅かな痛みをもって、テアの気分ははっきりと切り替わった。
「よしっ」
 誰にともなく気合いを入れ、踵を返す。そうして、その姿勢のまま、テアは体を硬直させた。お約束のように、忍び笑いを漏らすカイがいる。
「……人が悪いですよ」
「いや、朝食に呼びに来たんだが」
 さすがに、このタイミングで腹を鳴らす芸当はテアにはない。
 先ほどとは違う意味で赤面しつつ、彼女は誤魔化すように布で顔を拭った。
「や、宿屋じゃないんですから、朝食はどこかに食べに行くんですか?」
「前の店で、肉と野菜の煮込みを買ってきた」
「……すみません」
 なんとも、卒のない男である。テアの調子に合わせていては旅が進まない、というのが根本にあるにしても、「快適な旅」という契約条件がなかったことを思えば、これは彼の厚意に違いない。
 益々頭が上がらないと思いながら、テアはカイの後を付いて仮眠室へと引き返した。
「食べたらすぐ出発ですか?」
「そうしたいところだが、大丈夫か?」
「はい」
 短く返せば、カイはその本音を読み取ったように頷いてスプーンを手に取った。せめて示された行動だけでも素早く、とテアも二割増し速く咀嚼する。
 ほどなくして簡素な朝食を終え、運送業の受付の男に声をかければ、彼はカウンターの奥でひらりと手を振った。その笑みがどこか複雑な色を含んでいたことに首を傾げつつ、店を出て昨日と同じ馬に鞍をかける。
 朝早くであるにも関わらず、逆方面へ足早に去っていく数人を見送った後、テアは上体を起こし前を見つめた。
「ハイッ」
 つま先を軸に踵で馬の腹を圧す。やや反応の鈍い馬は、それでゆっくりと足を動かした。数歩歩かせ、道に出たところでゆっくりと手綱を右に傾ける。
 テアがどうにか馬を進行方向へ誘導できた時点で、カイがようやく鞍を跨いだ。慣れた様子でスムーズに馬を歩かせると、すぐにテアの横に並ぶ。
「しばらく道は平坦だ。昼まで走らせるぞ」
「はい」
 つまりその先は難航すると言うことだろう。その為にもなるべく距離を稼がなければ、とテアは手綱を握りしめた。


 その後しばらくは問題も起きず、休憩を挟みながら順調に旅は進んだ。肉と野菜を挟んだパンと水で昼食を終え、小川の側で1時間ほど馬を休ませる。この間、テアは積極的に旅のコツなどをカイから引き出していた。そうした話題でも持ち出さなければ話が続かないというのもあるが、成人後の事を思えばなにかと覚えておいて損はない。
 教師としてはあまり優秀とは言えないカイだったが、知識を出し惜しみすることもなかった。
「地図上の距離はまぁ、目安と考えた方が良い」
「何でです?」
「きちんと測量されたところとそうでないところが混在してる。稀に、住民を騙すために領土を大きく見せようと、自国だけ妙に広い地図を売ってる国もある。そうじゃなくても、まだ国境線は安定してないからな」
「で、町に着いたらまず情報収集、なんですね」
「そういうこと」
 その割にカイが、タリカの町でそれを行動に起こそうとしなかったのは、この街道を何度も行き来しているためだろう。行きたい方向の情報に通じた男と知り合えたのは本当に幸運だ、とテアは何にともなく感謝した。
「情報は? やっぱり宿で?」
「いや、派遣組合があるなら――……」
 答えかけ、突然カイが眉根を寄せた。半ば傾けていた首を真正面に向け、手綱を引く。
 慌ててそれに倣ったテアは、前方を探るカイの邪魔にならないようにと息を潜めて彼が口を開くのを待った。
「煙だ」
「え?」
 前方、しかしテアには何も見えない。問うような目を向ければ、緊張状態を持続させたままカイが強い口調で動かないようにと指示を出した。
「そう大きな音も聞こえないから大丈夫だとは思うけど、そこの木の蔭で待機。いざとなったら逃げなきゃいけないから、馬からは降りないように。いいな?」
「わかりました」
 むろん、否もない。カイの示した木陰まで馬を歩かせ、そこで止まれと合図を送る。何度か鼻を鳴らした馬がその場に留まったのを見届けて、カイは自身の馬を走らせた。それを目で追えたのも束の間、すぐに砂煙と共に馬蹄が遠ざかっていく。
「煙か……」
 呟き、テアは汗に滲んだ手綱を握りしめた。若干木の密集した街道沿いはけして暑くなどないというのに、背中に妙な汗が伝う。そも、燃えさかる炎やそれに伴う黒煙に、いい思い出などあるはずもない。
 わずかにそよぐ風が枝葉を揺らす、そのざわめきに耳を傾けながらテアは固唾を飲んでカイを待つ。
 数十分、否、実際にはさほどの時間もなかっただろう。
「待たせた」
 緊張の残滓を引きずったまま戻ってきたカイは、あからさまに安堵するテアを見て苦笑したようだった。
「不安にさせたな、悪い」
「いえ。……それで、特に問題はなかったんですか?」
 何かあったのなら、すぐにカイは逃げ出すように指示を出すだろう。加えて言うなら、並足で戻ってくるはずがない。
 だがカイは、期待と安易な考えを否定するように緩く頭振った。
「今は大丈夫だ。だが、この先の道を馬車が塞いでる」
「え? 事故ですか?」
「人為的な、な」
 つまりは、その馬車が何者かの襲撃を受けた後のことだった、ということだ。
「近隣の村人の集団だ。死者は出なかったが、怪我人がいる。馬車を除けるくらいは手伝う必要があると思う」


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