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「なっ……」
「裕福な私が、護衛を連れて旅先で賊と手を結んで小さな馬車を襲う? 意味が判らない」
 要するにアリッサは、シドラに連なる者を全て憎みたいだけなのだ。
 唇を震わせる彼女に、テアは一枚の紙を突きつけた。
「読んで」
 さすがに面食らった様子で、アリッサとリタが紙の文字に目を向ける。
「組合からの依頼書です。半強制の依頼ですけど」
「……」
「護衛兼案内人兼監視人付の旅が、そんなに羨ましがられるものだとは思いませんでした」
 むろん、作り話である。だが、間に合わせのために作られた組合の身分保証書だけを見れば、その発言と内容を疑う余地はない。そういったものを読ませることは、感情で全てを否定する人間相手には下手な反論よりも効果が高いのだ。
「それに、私がこの馬車に乗っているのは、与えられた馬を無償でお貸ししているからです。そしてそれを承認したのは、あなた方の代表だと思いますが、違いますか?」
「組合の人から命令されたら、逆らいようがないじゃない」
「護衛を依頼してきたのはそちらですよ」
「護衛してるのは組合の男の人じゃない。あんたに依頼したわけじゃないわ!」
「なら、それをあの人に言うべきですね。呼びましょうか」
 平然と、努めて無表情に答えたテアは、不安定な姿勢から腰を浮かせた。馬車には、幌が付いていない。大人が座ればどうにか隠れる程度の囲いと、支柱に板を渡しただけの屋根がついているだけだ。膝立ちになるだけで顔が囲いの上に出る。
 だが、後方にいたカイを呼ぼうと口を開いた瞬間に強く肩を掴まれ、テアは囲いの中に押し戻された。
「強い者の威を借りようってわけ!? 汚い女ね!」
「アリッサ、やめなさい!」
「あんたたちシドラ人はどこまで狡いの! あたしの母さんはシドラ兵に襲われて自殺したわ! 村の人も何人も殺された。あたしはあんたたちを赦さない!」
「それで?」
「……っ!」
 アリッサが手を振り上げる。予想通りに飛んできた平手を腕で止め、テアは彼女の目を冷たく射貫いた。
「私だって死にかけるような暴力を受けましたよ、ルベイア人に。傷痕、見ますか?」
 そうして、かつての疵を淡々と口にする。
「村は焼かれて、両親も目の前で殺されましたしね。収容所では年上の女の人が『言うこと聞かされる』なんて珍しくもありませんでしたよ。私もあなたたちを憎んでいいってことですよね」
「あ、……あんたたちは、自業自得じゃない! シドラから先に侵略してきたんだから!」
「先? 先というなら、何十年も前にルベイアの方が随分な圧力をかけてきたのがはじめですよ。シドラの王女を人質同然に嫁がせてひとまずは落ち着いたという歴史がありましたけど」
「知らないわよ、そんな昔の話」
「私だって知りませんよ。10歳にもなってなかった頃に、権力とは無縁の村から遙かに離れたところで始まった戦争の責任の取り方なんて」
 かつて虐げられたから、今何をやってもいいというものではない。国のしでかしたことに対して国民が何らかの責任を持つのは義務としても、それはあくまで国が決める方針の範囲としてのことだ。個人的な恨みを、全く無関係の者が粛々として受け入れなくてはならない義務はない。
 政治に関与したシドラ首脳部は、王都と共に死を持って罪を贖った。彼らに国の運営を任せていた国民は荒れた国土に取り残され、或いは強制的に追い出され自由という権利を奪われることで制裁を受けている。静かにそれを受け止める以上の代償が必要であるとすれば、それは個人の因果でしかない。
 テアは、口端を吊り上げた。
「当時政治だの国だの知りもしなかった子供が、わけも判らないまま天涯孤独となって住んだ土地を追われ、体を好き放題された挙げ句監視付の生活を送っているのをいい気味、と思うわけですね」
「そ、そこまでは言ってない!」
「あなたの言った自業自得と言う言葉には、充分含まれてましたよ」
 莫迦だ、と思う。そうしてこういう「静かに平和に暮らしたいだけの善良な一般人」が後の諍いを生み出していく。狭い価値観の中で生み出された恨みを、正当なものとして疑わないアリッサはもとより、それを積極的に窘めようとしないリタのような女が、母親として子供に伝えていくのだ。
 自分は過ちを犯さない、と過大評価しているわけではない。ただテアは、耐えなければならない立場に身を置いているため、人の中にある個人と社会は、けして単純にひとくくりにできるものではないということを悟らざるを得なかったのだ。
 そして、故郷を善として懐かしみ想うには、それによって与えられた境遇が過酷に過ぎた。
 早く見たい、とテアは思う。何もかもが変わり、誰もいなくなったその場所を見て、嗤いたい。もう何もないのだと、実質、人の心以外に自分を縛る過去はないのだと、そう実感したい、とテアは皮肉混じりの笑みを浮かべた。
 ――と。
「少し、静かにしてくれ」
 車の外から、不意に静かな声が降る。
「一応、賊を警戒中なんだ。奴らに位置を知らせるつもりか?」
 尤もなことである。返す言葉も見つからず、主にアリッサは気まずそうに身を縮めた。
「それと、あんた。――黒い髪のあんただ」
「あたし?」
「あまり、テアを苦しめないでくれ。護衛対象に泣かれるのはごめんだ」
「……泣いてなんか、いません」
 冷静なまま強ばった顔を向けて、テアは短く否定する。
 カイは、ただ眉を下げて肩を竦めたようだった。
「戦争ってのは、勝っても負けても必ず傷つく者が出るんだ。恨むなら、直接権力を握ってた奴らと、戦争を金儲けの手段にしてた俺たちにしとけ」
「あ、あんたは……」
「もと傭兵だ。――もしかしたら、あんたたちの村も襲ったかも知れんぞ。仕事でな」
 つまりは、自分の意志で、ということだ。
「命と良心を捨てた莫迦な職業だ。やりたいなら、いつ背中を狙っても構わんぞ」
 テアを含め、女たちは一瞬言葉をなくす。
 そうしてカイは、言うだけ言った後、再び馬車から遠ざかっていった。

 *
 
 鐘の音が響く。陽も落ちかけて更に薄暗くなった曇天の下、リタとアリッサが顔を見合わせた。


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