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 テアは強ばった表情で頷き、速度を上げたカイの後に従うように馬を走らせた。
 ――と。
「テア!」
 突然、カイが鋭い声を上げた。びくりと震えたテアは、反射的に手綱を握る手に力を込める。当然馬はそれに反応し、脚を緩めた。
 その、二頭の間に鋭い線が過ぎる。
「!?」
 目を見開いたテアが馬の制御に戸惑っている間に、前を進んでいたはずのカイが器用に馬首を返して方向を変えた。そうしてテアの横をすれ違う際に、腰から抜いた剣を一閃させる。
 カッ、と短く金属が鳴った。遅れて、地面が鈍い悲鳴を上げる。今度こそはっきりと飛来する物を目に止めたテアは息を呑み、次いでさっと顔を蒼くした。
 同時に複数の、大気を裂く鋭い矢音。さすがに避けきれず、テアの肩口を掠めていく。
「止まるな!」
 言いながら、カイがテアの馬の側面を剣の柄で叩く。少し崩しただけで今にも落ちそうな姿勢にも関わらず、その一撃は十分な威力を持っていたようだ。嘶き、テアの馬が逃げるように走り出す。思わず手綱とたてがみにしがみつき、テアはしばらくの間それだけに手一杯となった。
 馬の進むままに走らせる彼女の後ろを、弓を構えたカイが続く。足だけで支えているとは思えないほど姿勢に揺るぎがない。そしてその空いた両手で、カイは時々矢を放っていた。襲ってくる何者かに、それがどれだけ命中しているのかはテアには判らない。だが確実に、飛来してくる矢の数は減っていった。
 数十分、否、実際には数分のことだったのだろう。
 自分の心音に気を取られていたテアは、ふと、背後から重く響く音が迫っていることに気がついた。
「振り向くな、そのまま進め!」
 頭を半分傾けたと同時に、カイが低く叫ぶ。
「もうすぐ領境だ、そこまでは近づいてこない。全力で駆ければ大丈夫だ!」
 カイの言葉を信じた、というより信じる他なかったと言った方が早いだろう。テアは熱を持つ肩の痛みを堪えながら必死で上体を起こし、気力を振り絞って馬を駆った。指先は冷たく震え、既に感覚がない。雨に打たれているにも関わらず、喉はカラカラに干上がっている。
 十秒、数十秒、永遠に続くかと思われるような緊張の中、銀幕の奥にそれは見えた。一瞬遅れて、妙に甲高く尾を引く音が響く。
 途端、後ろに迫っていた馬蹄がその音を消した。代わりに、目の前に迫った領境の門に人影が集まり出す。
「救援を呼ぶ矢だ。もう心配ない」
 横に並んだカイがもう一度上空に放ち、早口にテアに告げた。
 テアは硬く目を閉じ、息を吐く。慌ただしく動く警備隊をはっきりと目で捉えながら、彼女は全身から力が抜けていくのを感じた。

 *

 ざわざわと落ち着かない待合室の隅で、テアは濡れた髪を乾かしつつ係員が戻るのを待っていた。等間隔に配置された長いすは見た目よりも座り心地の良い物だったが、さすがにじっとしているには冷たく硬い。定期的に立ち上がり、体を伸ばしてからすり減ったクッションを整えて座り直す。そうでもしなければ、如何にも居心地が悪かったのだ。
(なんだかなぁ……)
 自分ではどうしようもないところまで来てしまった事案を、その結果をただひたすら待ち続けるのは苦痛以外の何ものでもない。カイが居れば何かしら便宜を図ってくれたのだろうが、彼は今別室に連れて行かれている。
 一時間ほど前、カイと共に門の内側へ駆け込んでしばらくは場も騒然としていたが、そのうち戻ってきた兵と共に速やかに沈静化していった。領境――かつての国境を越えるべく待合室にいた一般人も、怯えてはいたようだが、別段恐慌に陥るわけでもなく今に至る。要は、この辺りを通るものには慣れたことなのだろう。
 なんとなしに耳を傾けていた情報を総合すれば、このところ、街道を行く定期便の馬車には必ず、軍の護衛がついているとのことだった。王都を出てタリカ、アロファ、トルーゼンと、町を越える毎に目に見えて治安が悪くなっている。ここ、トルーゼンを越えればどうなるのか、想像するだけでも頭が痛い。
 ここへ来て既に十数度めのため息を吐き、テアは係員の消えた扉を眺め遣った。
 他の旅人たちはとうに審査を終えて領境を越えている。自分だけがやたらと長い理由は、――考えるまでもない。
 と、その時丁度、否、ようやくと言うべきか。鈍い音を立てて扉が開き、軍服を隙なく着こなしたルベイア兵が姿を現した。
「テアというのは君か?」
 感情のこもらない声ではあるが、上から目線、というほどではない。初対面にしてはまずまずの態度だろう。
 テアは立ち上がり、窺うように頭を下げて返事を返した。
「はい。私です」
「そうか。怪我をしているそうだが、問題はないか?」
「痛みますが、大丈夫です。手当もしてもらいましたし」
「なら結構だ。――悪いが、ここから引き返して貰わなくてはならないのでね」
 あっさりと、だが聞き違えようもない結論を口にして、兵はテアを見下ろした。
「領境を越える許可はできない。速やかに、とは言わないが、調子が整い次第引き返すように」
「な……、何故ですか!? 証明書はあったはずです!」
「組合の保証か……、だが、通すわけにはいかない」
「何でです?」
「半月ほど前なら問題なかったのだが、事情が変わった」
「……シドラ人がシドラに戻ったら、どんな反抗をしてくるか判らないからってことですか」
 低い声で問えば、兵は不快そうに眉間に皺を寄せた。確認は否定、だが彼の本音としてはそういう気持ちもある、というところだろう。
「一応、ルベイアへ逃れた者は保護を受ける。つまり、保護者の同意なしに危険な地域へ向かわせるわけにはいかないということだ」
 要は対外的なアピールだ。侵略した国を思うままに蹂躙できた大昔とは違い、今は奴隷制度も撤廃され、戦敗国の住民や捕虜の処し方もそれなりのものが求められる。公に保護した戦敗国の者に何かあれば、そしてそれが多発すれば、ルベイア国は諸外国からの批難を免れないのだ。
 むろん実際には、はっきりと生活格差が存在しているわけだが、それについては「本人の努力と資質」の問題と絡めてうやむやに出来る。だが、危険と判るところへ入る許可を出したとなれば別だ。
「保護者の同意がなければ、絶対に駄目なんですか?」
「それなりに責任ある立場の者の保証があれば、同行人次第で通せなくもない。だが、君が持つ組合の保証書は強制同行の一種になるので不可だ」
「この先で何があっても何一つ訴えない、国のせいじゃないって一筆書いてもですか?」
「強制的に書かされたと言われればそれまでとなる。許可できかねる」
 頑なな兵の科白に、テアは内心で舌を打った。


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