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 融通が利かない、と言ってしまえばそれまでだが、確かに兵の言葉にも一理ある。立場の弱いものは、周囲を味方に付けることにより時として大きく変質する。要は一方的な被害者として認定されてしまえば、強者がどれだけ論理的な証拠を挙げてきたとしても、感情という不定形で厄介なもので押し流せてしまうのだ。それを、兵は危惧しているのだろう。
 そこまでを思い、厄介だとテアは目を細めた。彼女に切れる手札はない。完全に手詰まりだ。――そう、苦々しく奥歯をかみしめたとき、
「保証書ならある」
「え!?」
 乱暴に扉を開けて現れたカイの科白に驚いたのは、テアは驚きの声を上げた。兵は意外そうに眉を上げただけで、冷静な目をカイに送った。
「そちらの扉からの逆進入は禁止しているが」
「悪い。だが、関係者だ」
 言い、カイはところどころ濡れて縒れた紙を兵に突きつけた。
「マリシェ村代表、マンセル・マルシェから貰っている」
 その紙には、テアの身に起こる全ての責任を持つ、とそうしたためられていた。
 またしてもいつの間に、と思い、テアは今朝のことを思い出す。荷物を運び戻ってきたカイは、何よりも先にマンセルを呼び出した。あのときしかない。おそらくは運送業者の支店で情報を仕入れ、先手を打ったのだろう。
 上から下までを何度か読み返し、兵は短くため息を吐いた。
「確かに、規定通りの文章だ」
「地方の村長では弱いか?」
「これだけではな。――だが、組合の後押しがあるなら、まぁ、何とか通行許可も出せるだろう」
 テアはほっと胸をなで下ろす。
「だがこの先、近々街道が封鎖される。下手をすれば向かった先で長い足止めを食らうことになるぞ?」
「心配ない。一日で往復できる所に行くだけだ」
「なら、いいが。では、向こうで通行許可証を発行する。滞在期間は一週間以内でいいな? それ以上は手続きが長くなる」
「それで頼む」
 むろん、テアに否やはない。兵の誘導に従い手続きを済ませ、検問所の建物を出る。領境の門の横を一部くりぬいて出来ているため、出ればそこがシドラ地区だ。右に左に、ルベイア兵がたむろしているため実感はないが、地図の上ではそういうことになる。
 全体的に殺気立っているのは、それだけ危険が飽和状態に近いということだろう。しばらくそのまま道なりに進み、街区へと足を踏み入れる。
「――……」
 久々に見た故国は、灰色の世界だった。夕暮れ前、けして悪い天気というわけではないにも関わらず、町全体が陰鬱に沈んでいる。
 本来なら家路につく者、仕事を終えて一服する者で騒がしいはずの大通りにも、行き交う人は疎らだ。本来店が軒を連ねる左右も、閉じられたままの扉が目立つ。壊れたものを直すこともなく、粗い修繕でその時々を凌いでいると判る建物の群れは、ルベイアで見たどの町よりも荒んで見えた。
 無言のままに歩きつつ路地へと目を向ければ、蹲る複数の人影。誰もがやせ細り、纏っているものはかつて服だった、という代物ばかりだ。旅の出立前、気まぐれに粥を譲った浮浪者も大概の襤褸を着ていたが、それと同等かそれ以下と言えるだろう。彼が死んだのがルベイア王都ではなくこの界隈であったのなら、おそらく、誰であるのか判別がつかなかったに違いない。
「荷物を届けたら、とりあえず、宿を当たるか」
 最後の道を急いだため、予定より随分と早く到着している。頷きかけ、テアはふと首を傾げた。
「あの、馬はどうしたんですか?」
「休ませてある。状態が落ち着いたら直接業者に連れて行って貰うように伝えた。一晩ほど厩舎で馬丁の世話を受ければ大丈夫だろう」
 最後の疾走が祟ったのだろう。発汗も激しく、あのまま更に進んでいれば死んでいたはずだ。無理をさせたはずだが幸い骨折もなく、適切なケアが受けられたことは喜ばしい。
 運送業者へ預けられていた鞄を届けると、受付の女は驚いたように目を見開いた。
「まだここに来る人がいたんだねぇ」
「俺にしてみれば、女の受付の方が珍しい。危なくはないのか?」
「危ないさ。ただ、もう、ここの支店は閉じるんだけどさ。その前に亭主――前の受付役が強盗に入られて殺されたからさ」
 ルベイア方面へ逃げ出すための旅費稼ぎに、数日受付を代行しているとのことだ。物騒だが、今この周辺で働ける場所は殆どないのだという。
「ここ最近は手紙とかばっかだったけど、それもだんだん減ってるしね。金や伝手のある奴はとうに北に逃げてるから」
「……そんなに、酷いんですか」
「南西の方の情報は殆ど入ってこないね。ナヒム山脈で分断されてるから、ってだけかもしれないけど」
 シドラはもともと山と森林が国土の大半を占める国であった。かつてのルベイアとの国境に近いこの辺り一帯は、東西に延びる山脈によって中央と隔てられている。山を越えて数十キロまでがシドラ、それ以降に北方に続く平野部分は他国、という妙に横長い一部分を領土として持っていたのは、遙か昔、シドラが最大の版図を持っていた頃の名残だという。
 テアの過ごしていた山奥の村などはともかくとして、この平野部はかつてのシドラ国防衛ラインとして、北方との紛争が起これば真っ先に被害を受ける場所だった。それが今は、多少なりともルベイア中央部と交通のある領域となっているあたり、かなり皮肉なものがある。
「南方の国の様子はどうだ? 国境線から動いてないらしいが」
「ここしばらくは目立った動きはないね。今ちょっかいかけても、実りはないって気づいたんじゃない?」
 戦争を起こし領土を掠め取ったところで、荒れ果てた土地は数年の間援助を食いつぶす荷物にしかならないだろう。
「正直、国なんてなくなっても私たちにとっちゃ支配者が代わるだけ、大丈夫とか思ってたけど、こうなると村単位で自給自足の生活をするのは、厳しいんだね」
「遙か昔はそれで良かったんだろうが、時代が動いたからな。大きな組織の庇護がなければ、呑まれるだけだ、が……」
 言葉を途中で止め、カイは僅かに首を傾けた。眉間に皺を寄せ宙を睨んでいるところを見ると、何か気になることがあったのだろう。
「どうしたんですか、カイさん?」
「いや……」
 どこか腑に落ちない点があるのか、彼には珍しい生返事が返る。
 代わりに、受付の女が顔を上げた。
「あんた、カイ? もしかしてカイ・リーデルって名前?」
「そうだが」
「あんたに手紙が届いてるよ」
「俺に? ……組合本部?」
 受け取った封書の口をナイフで切り、カイは中に入っていた一枚の紙を取り出した。そうして目で文字を追い、おもむろに皮肉っぽい笑みを浮かべる。


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