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 何が書いてあるのかと興味を覚えながらも、そこはさすがに立ち入るべきではないとテアは一歩下がることで好奇心を抑えた。だが、目の端でそれを捉えたカイには、その心中など筒抜けであったようだ。素早く紙を畳んだ彼は、人の悪い笑みを浮かべてテアへと向き直った。
「気になる?」
「いえ、……もしかして、その、危ないからすぐ引き返せって命令が出たのかと思って」
「命令じゃないが、まぁ、それらしきことは書いてあるな」
「え」
「まぁ、明日一日の話だ。気にするな」
 次の瞬間には興味をなくしたように紙から目を離し、折りたたんで無造作に鞄に放り込む。
「さて、宿探しだが……、どこか、営業してるところは知らないか?」
 後半は、受付の女に向けての言葉である。脚の歪んだ椅子に腰をかけていた彼女は、少し考え込むように上を向いた後、カウンターに身を乗り出して指で指し示した。
「ここを出て右にしばらく行けば、ちょっとでかい建物が見える。その横の緑の屋根の宿ならマシだよ。私の紹介って言えば泊めてくれるはずさ」
「そいつはどうも」
「町中じゃ、油断しないようにね。それと、……できるだけ早く、ルベイア方面へ帰った方がいい」
 手を振り見送る女に一礼し、テアとカイは教えられた店を探した。途中、非常食を補充するために何件かの店を覗いたが、いずれも満足な品揃えにはほど遠い。ルベイア軍からの支給物資でどうにかやりくりしている状況なのだろう。領境を越えてすぐのところでこの有様、この先の状況は想像に難くない。
「人手が足らなければ満足に生産もできない。少しの実りは盗賊が奪っていく。そして更に人は離れていく……。そういう悪循環だ」
「カイさんは、知ってたんですよね」
 この状況を。
 声にならなかった言葉は、正確にカイに伝わったようだった。硬い表情で頷き、だが恥じることも臆することもない様子で寂れた道を指し示す。
「見なきゃ、判らんだろ。それにあんたは見るために来たはずだ」
 苦い、――だが、これが真実だ。
「あそこが宿屋みたいだな。少し早いが、明日はあんたの村まで往復することになる。休もう」
 緑の屋根に気づいたカイが、テアを促しながら足を速めた。彼の言葉を深読みするなら、休んでおく必要があるということになる。つまりは体力をつけておけと。
 それほど、これからの道はキツイのだろう。疲弊した状態では、彼にしてもテアとふたり分の身を守りきれないに違いない。
 思い、テアはふとわき起こった疑問に気がついた。

 そう頼んだのは私だ。――だが彼はそれほどの危険を冒してまで、何故私をここまで連れてきたんだろう。

 *

 火の粉が降り注ぐ。風に煽られた灰と煙が視界を狭め、怒号と悲鳴が聴覚を麻痺させる。
 響く馬蹄。不規則な矢の軌道。それらが通り過ぎるたびに地面は朱に濡れた。ひとり、またひとりと倒れ、一瞬では死にきれなかったものが断続的に痙攣を繰り返す。
 呻き、助けを呼ぶ声、荒い呼吸。そこかしこで消えていく命の音を聞きながら、幼いテアは血の滲む足で村だった場所を駆け抜けた。心臓と肺はとうに悲鳴を上げている。手足には既に殆ど感覚がない。精神も体力も限界を超している。だが、それでも走らなければならなかった。
 助けてくれる者はいない。両親は、目の前で斬り殺された。偶然外に出ていたテアが彼らの下へ駆け寄る前に、隣家の娘が引き留めて逃げるように促してくれなければ、テアも又同じ刃を濡らしていたに違いない。更に言えば、その娘が山奥の方へ行くように指示しなければ、町へ降りる山道で、やはり別の凶刃に倒れていただろう。
 山に向かう人影は他になかった。村はずれにある古い遺跡には、子供ならどうにか入り込める程度の横穴がいくつか存在する。むろん、奥深く入り組んでいるわけではなく、少し注意を払えばすぐに見つかる程度の直線の穴である。だが混乱したテアの頭では、隠れるところと言えばそこしか思いつかなかった。
 普段、大人たちは子供が遺跡に向かうと渋い顔を向ける。基本的にそこは祭りの度に大人たちが訪れる場所で、子供特に男児たちは出入り禁止だったのだ。むろんそれを破るのが楽しく、どれだけ怒られても子供たちはそこで遊び続けた。
 なのに今は、叱ってくれる者さえいない。
 走り、走り、遺跡の柱に縋りつく。今にも落ちてきそうな曇天は、まるで疎らに立つそれらの柱が支えているかのようだった。
 今にも弾けそうな心臓へ手を遣り、荒い呼吸を何度も繰り返し、――
『――なんだ、ガキか』
 濁った声に、ぎくりと背を震わせる。
『これなら町の方襲っときゃよかった』
『言うなよ。今は突っ込む気にもなれねぇガキでも、シドラ人なら高く売れる可能性だってあるぜ?』
『そうだなぁ、莫迦には王家の目だとかで騙せるかも知れねぇし』
 下卑た声が近づくと共に、背の高い草が割れていく。恐怖にそれから目をそらすことも出来ず、テアは汗に滲んだ掌を握りしめた。
『抵抗なんざ、するなよ……』
 朱く脂を纏わせ、刃こぼれした得物が男の手に握られている。男たちの服装は全く統一性がなかったが、全て返り血に濡れているところだけは同じだった。
 何人、彼らによって村人が殺されたのか。――そして彼らの言うように、抵抗の意志を見せれば自分も朱い装飾のひとつになるのだ。
 震える。竦み上がった体は、足音ひとつにすら心臓を揺り動かした。目を固く閉じ、その瞬間を待つ。
 間近に人の気配。そうして汚れた手が近づき――……


「嫌だ!」
「テア!!」
 太く鋭い声に目を開ければ、僅かな光を横に受けた見知らぬ男の顔があった。――否、カイだ。夢と現実が未だ混ざりあっている。
 振り払いかけた手を引き戻し、テアは額に掌を押しつけた。
「悪い夢でも見たか?」
「え……」
「うなされてた」
 そうだろう、とテアは思う。全身、汗に濡れている。喉はカラカラに渇いて上手く声が出ない。
 差し出された布と水を受け取り息を吐いたテアは、ふと、外が妙に騒がしいことに気がついた。カイを見れば、真剣な顔の奥に苦々しさが潜んでいる。
「辛いところ悪いが、逃げるぞ」
「何が、あったんです?」


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