[]  [目次]  [



 背後で、ベッツが喉を鳴らす音が聞こえる。かつては同じ釜の飯を食べた人間でも怖いのかと思えば、幾ばくかの冷静さがテアの中にも生まれるようだった。
 カイが、鞘に入れたままの剣を向けながら、最後通牒を突きつける。
「抵抗できねぇ民間人相手にしてきた貴様程度、殺すのはわけねぇよ。その子を放しな。命乞いを聞いてやる」
「……ぬかせっ! 優位に立ってんのは、てめぇじゃねぇよ! こいつを殺されたくないんだろ!? だったらその剣を自分の喉に突き立てな!」
 テアの髪を掴んだ指に力を込め、ベッツは引きつった声を上げる。頭皮の痛みに顔をしかめたテアは、間違いなく自分が足手まといになっているという現実に歯がみした。喉元の刃物が揺れるたびに恐怖を感じる。だがそれ以上に、何も出来ない現状が悔しかった。
 一歩、前に踏み出せば、否、首を前に出すだけで、死ぬという形で役に立つことは出来る。だがその勇気がもてない。
「テア」
 そんなテアに、カイが低い声で呼びかける。
「生きたいか? それとも、そいつを殺したいか?」
「!」
「決めろ。あんたの未来だ」
 突き放すように、カイが言う。背後で男が、生臭い息を吐いて嗤った。震えている小娘の選択肢など、判っていると言いたいのだろう。
 事実、テアが望むのは前者だ。生きたい。そんなのは当たり前だ。
 だが、それを願ってどうなるというのだろう。カイを犠牲に仇と言える男の手に落ち、その先に何があるというのか。どこまでも堕ちた、尊厳を問われるような生き方でも命にしがみつきたいというのか。
 そんな未来のために、ここまで来たわけじゃない。
(……ああ、莫迦だ)
 テアは小さく口端を歪めた。今頃になって、と自分を嗤う。
(生きるためだ。この先を行きたかったんだ)
 苦しさから解放されたかった。苦い記憶と決別したかった。それは何故か。――この先も、強く生きていくために。未来に進むためにここまで来たのだ。
 そう思えば、テアの中にすとん、と落ちるものがあった。
 十数年ぶりに故郷を見た故郷。何もかもが変わり、誰もいなくなったその場所を見て、テアは確かに嗤った。懐かしく思い哀しいと思い、泣けてくる自分を。
 愚かだった。現状をどれだけ疎んでいても、そうなった原因を作りあげた過去という環境を恨んでいても、確かにこの地は自分の生まれ育った場所だったのだ。嫌いで離れたわけではない。退屈なほど平凡な日常を愛していた。テアにとっての、平穏の象徴だった。
 大丈夫だ、と思う。テアの死は、単なる犬死にには終わらない。けして豊かではなかったが、細々と平和に暮らしていた村。愛すべき故郷を壊滅させた仇を討ってやる、とカイは保証してくれたのだ。
 ならば、言うことなど決まっている。
「殺して」
 私を、そして、後ろにいる男を。
 自分では死に踏み切れない。だからカイに乞う。その根性を愚かだと思い、だが強い願いを持ってカイを真っ直ぐに見やる。

「構わない。――斬って」
 私ごと。

 瞬間、カイの手が閃いた。
 あ、と驚く暇もない。何かあったと理解したのですら、全てが終わった後だった。
 悲鳴も呻きも何もない。頭上に風を感じ、重く鈍い音が響き、掴まれていた髪が痙攣するように引かれた。ただそれだけだった。
 ぎこちなく首を捻り、後方を見上げれば、焦点の合わない目に鈍い銀が光る。だが、意識できたのはそこまでだ。
 己を支える力をなくした男が後方に倒れ、すぐ近くにあった崖から転落していく。髪を束で掴まれ呆然としていたテアが、それに巻き込まれるのは必然だった。
「テア!」
 どこか遠くで聞こえる声が焦りを含んでいる。
 珍しい、と思いながらテアは、次いで襲った衝撃に意識を失った。

 *

 何かの夢を見ていたように思う。だがそれを手に掴む前に、テアはゆっくりと意識を浮上させた。
 暗い。だがぼんやりと見える天井に影がゆらゆらと揺れている。近くで火が熾されているようだ。
「気づいたか?」
 頭上からの声。ふと視線をその方に動かしたテアは、ぎよっとして目を見開いた。
「うわっ、て、……痛っ!」
 慌てて起こしかけた体、その背中に強い痛みが走る。呻きをあげて、結局テアは再びもとの場所に頭を戻す羽目になった。皮膚を引き裂くような鋭い痛みを脇腹に、背中全体に鈍い痛みを、そして手足も動かすと妙に引き攣れる。
「あんまり急に動くな」
「……急にカイさんが覗き込んだから、吃驚したんです」
「そりゃ、悪かった」
 全く悪びれた様子はない。それもそうだろう。カイの膝枕――正確には胡座を組んだその間に頭を置いて、ずっと気を失っていたのはテアの方だ。礼こそあれ、文句など言えた立場にはない。
「ゆっくり動いてみろ」
 頭の下にあった、折りたたまれた上着ごとカイはテアの肩を押す。そのサポートを受け、テアは今度こそ慎重に座位へと姿勢を変えた。
「大丈夫か?」
 敷いていた上着をテアに掛けながら、カイが問う。揺らすように体を動かし、唐突な動作さえなければ別段問題ないことを確認してから、テアははっきりと頷いた。しばし背中から支えていたカイが、安定したのを見届けて離れていく。
 カイはどうやら殆ど無傷であるらしい。少なくとも、体に不自由を来しているようには思えない。
「あの、……どうなったんですか?」
 男に引きずられて崖から落ちたことはむろん、覚えている。だが、そこで記憶はそこまでだ。しばしテアを見つめたカイは、やがて後頭部を掻いて緩く首を横に振った。
「あんたたちは崖から滑り落ちた。腕やら足やらの怪我は、落ちていく途中で枝や石に当たったせいだろう」
「それにしては軽いと思うんですけど」
「大した落差じゃなかったからな。せいぜい3階程度の高さか……まぁ、落ちてその程度で済んだのは、奴の体が下になってたせいだろう」
 奴、とは無論、盗賊のベッツのことだろう。だが不思議と、カイの声に彼に対する侮蔑の響きはない。
 よほど不思議そうな顔をしていたのか、それを読んだようにカイは低く笑い声を上げた。


[]  [目次]  [