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 最終地点。つまりは突き当たりの比較的広い空間に出たのだ。天井は低い。カイが手を伸ばせば肘を曲げる必要があるくらいだ。そしてその一部、どこからか光が漏れている。出られるかも知れないと周囲を見回せば、テアの目は自然、見開かれた。
 壁一面に人が描かれている。これまでよりもはっきりとした色彩だ。老若男女、いずれも詳細は判らないながら、どこか似たような笑みを浮かべている。そうしてそれらは、天井の一点を見つめていた。
「……ここは」
 ただ広い空間。何が置かれているというわけでもない。床に敷かれた古い筵だけが唯一の備品だ。一定間隔ですり切れたそれは、かつて祀りに関わった何人もが座っていた証拠だろう。
「緩いな」
 腕を伸ばして天井の石を触り、カイが眉根を寄せる。そうして彼はテアに断りを入れてから、天井をくまなく探り始めた。
 怪我を負った身で手伝えるわけもなく、天井の石を外し始めたカイの邪魔にならないようにと、テアは壁際に移動する。
 にこやかな笑みを浮かべる絵を横に、テアは深々とため息を吐いた。
「私、何も知らなかったんですね……」
 これが何を示すのか、ここで何が行われ、護られていたのか。
 憎い憎いと思いながら、そこにあったものを何一つ直視していなかった。愚かで、弱い心だと思う。
 だがそんな小さな言葉を耳に入れ、カイは少し笑ったようだった。
「知らなくても、ここはテアの故郷だよ」
「え?」
「ちゃんと、全部テアの中に入ってる。ここで大事にされてきた者や人が生きてきた軌跡は、全部あんたの中にある」
「でも、私何も知らないんです。ここを見たって、何も判らないんです」
「それでもここで生まれた。それならテアは、この土地に生きてきた全ての集大成ってわけだ」
 大げさな、と思う。そんなたいそうなものではない。
 だが不思議と、カイの言葉を否定する気にはなれなかった。
「儀式的なものなんざ、形さえ判っていれば、真似事程度誰にでもできる。大事なのは、そういうことじゃないだろ。ずっと古い時代から、あんたの家はここを守ってきたんだ。何か形あるものを継ぐよりも、心を継ぐのは難しい。だけどあんたの家は、この場所をずっと慈しみ続けた」
「っ、……私は」
 疎ましいものだと思っていた。祖国を失った憐れな根無し草。どこへ行っても蔑まされるなら、いっそない方がいいと思っていた。
 だからそんなことを言ってもらう資格などないと、そう言いかけたテアを封じるように、カイが言葉を継ぐ。
「全部、過去形だろ」
「……」
「ちゃんと、思い出しただろ」
 ――その通りだ。
「誇っていいんだよ。あんたの血筋は、古い時代から連綿と受け継がれてきた。古いものは古いだけじゃ意味がない。新しいものへと伝えるものを残してこそ価値がある。あんたは生きてここに帰ってきた。それでいいじゃないか」
 そうだ。ずっと、忘れていた。
 戦争の最中に生まれ、けして楽な生活ではなかったけれど、皆、この大地を、この土地を、とても大切にしていた。家を焼かれ両親を殺され、闇の中を逃げ惑う、そんな苦しい記憶の下には優しい日常が確かにあった。
 一度泣いてすっきりした為だろう。カイの言葉が、すんなりと身に染みていく。
「帰りたいっていうのは、帰る場所だって思ってなきゃ、言えないんだよ」
 頷く。
「その思いは、けして金や力じゃ手に入らない」
 小さな楽園も、そこに住まう人も失われてはしまったけれど、確かにその思い出は残っている。
 本当に莫迦だ、とテアは思った。言われて初めて、その思いに気づく。
「あんたは”戦敗国の生き残り”じゃない。誇りある”ダーレの末裔”だ」
 言い、カイは探っていた天井の石を強く押した。持ち上げられた天井の一部が、鈍い音を立てて横にずれる。
 途端舞い落ちてくる砂礫。気の遠くなるような長い間、動かされたこともなかったのだろう。カイは何も言わず、庇うようにテアの上に覆い被さった。
 パラパラと、粒の大きい砂が床を叩く。それが充分に収まるのを待ち、カイは身を起こす。
 そうして顔を上げ、――彼は、彼らしくもなく呆けたような声を上げた。
「……見ろよ」
 その声に導かれるようにして、テアも視線を天井に向け、
「……」
 ただただ、息を吐いた。

 ――パーフェクト・ブルー。

 ぽっかりと空いた天井から見える、何にも代え難い、どこまでも深く澄んだ青。
「あんたたち一族の、守ってきたものだ」

 大地の民は空を見上げる。陽を喜び雨を乞い、恵みを願う。
 遙かなる青は、届かぬ場所の憧憬と畏敬だったのかもしれない。

 *
 
 先にテアを上に上げ、自身は懸垂の要領で難なく地下から出たカイは、頭や服に付いた砂を払い落としてから深く息を吐いた。
 いつの間に朝になっていたのか、陽は斜めに作る影をずいぶんと短くしている。
「仰臥の遺跡、いや、祭壇か。この中心に寝そべって星を読む、とされてきたが、実際は違ったんだな」
 伸びをしながら肩を鳴らすカイは、見事に埃まみれだ。それを何とも思っていない様子の彼に感謝しながら、テアは見たことと思い出したことを合わせて呟いた。
「あれは、……産道だったんだと思います」
「産道?」
「広い間が子宮で、そこから始まって、最後に光を見る、それが生まれる瞬間。生まれるときの苦しさと、生まれたときの素晴らしい世界を覚えてなさいってことだと思います。昔、村長からそんな説教を貰った覚えがあります」
「誰もが、生きてこの世界にいることを尊さを、……ってことか。なるほどな。大地と母たる女を信仰していた土地だ。辻褄も合う」
 シドラが女王国であったということは、それがそもそもの土地の価値観だったのだろう。長い年月の内に廃れてきたそれを護り続けてきたダーレが、どれほどの古い歴史を持っていたかが判るというものだ。生き残りであるテアは、境遇の辛さに負けて危うくそれを捨ててしまうところだった。
 思えば自然に、礼の気持ちがこみ上げる。
「カイさん」
「ん?」
「ありがとうございます。――おかげで、大事なことが思い出せました」
 そうか、とカイは小さく頷いた。
「連れてきてくれて、本当にありがとうございます」
「礼はいいさ。はじめに言ったろ。俺に出来るのはそこに連れて行ってやることだけだって。そこで何を見て何を思い、何を決断するのかはあんたにしかできなことだ」
 言葉を切り、カイは目を細めてテアを見やる。
「いい顔してる。そうやって、何か手にすることが出来たなら、俺は満足だよ」
 本心からそう思っているのか。テアはお人好し、と呟き笑う。
 苦笑するカイを横にテアは円形の祭壇の上に立ち、そうしてぐるりと周囲を見回した。青空の下であるにも関わらず、どこか荒れ果てて陰鬱な雰囲気が漂っている。何もない。本当に、何もない。
 ――だが、いつかここに戻ってくるだろう。
 根拠はなく、しかし確信を持ってテアはそう思った。
「そろそろ、行こう」
 カイが手を伸ばす。
 その手を取りながら、テアはもう一度、空に向けて目を細めた。


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