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 テアは、目と口で3つのOを作る。
「つまり、本当なら一日彼を雇うのに5クルダかかるんですね。八日間で無事予定通り帰ってきたとしても40クルダ。それだけでも本来なら32クルダの不足です。更に更に言えば、宿代とかは本当は別料金になるわけで、……つまり、あなたの身分保証書とか含め、いろいろ誤魔化して騙してねじ曲げて偽造して! ああほんと、大変だった、じゃなくて、そうやって作成した書類で依頼を受けたんです。なので、真面目に延長料金なんか申請してしまうと、いろいろ不味いというか、今言ったとおり凄い金額になるというか」
 金額と硬貨を頭の中で弾き出し、テアは冗談でなく目眩を感じた。
 あり得ない。組合の活動もボランティアでないことを思えば、それが真っ当な値段なのだろう。そこを強引にねじ曲げた時点で既に、カイは多大な損害を組合に与えていることとなる。彼自身がいいと言ったとしても、商売である以上、ある程度の規制は必要なのだ。
「大丈夫?」
「……、な、わけありません!」
「まぁ、そうですよねぇ」
「詫びって、……詫びって言ったのは確かですけど、あの人、なんでそんな莫迦みたいな値段で依頼受けてくれたんです!? 金銭感覚とかいろいろおかしいとしか思えません!」
「同意。でも実はそれについては、あの人、『一飯の礼は尽くす』って言ってました。何か心当たりは?」
 問われ、テアは何度も瞬いた。全く、意味が判らない。覚えなど全くない。
 困惑するテアを見て、ヒューイは深々とため息を吐き出した。
「あの人、そういうところちょっと変わってますからね。今度会うことがあれば聞いておきますよ」
 頷き、テアは宜しくと頼む。
 だがその疑問は、程なくして解決することとなる。

 *

 営業を再開した料理屋兼酒家兼宿屋は、テアに相変わらずの忙しい日常を押しつける。ある意味住み慣れた狭い部屋は、改築により少しばかり住み心地のいい空間となり、そういう意味では環境も改善されたと言えるが、肝心の仕事内容と言えばさほど変わりはなかった。
 厄介な客はテアに回り、最終的な片付けも任される。けして楽なことではない。だが、夜、夢を見ることもなく眠れるようになったせいか、疲れは比較的残らないようになった。二年後の解放に向けて、前向きに捉えるようになったことが、気分を楽にしているのかもしれない。シドラ領内での騒動が落ち着きを見せ、諸外国への牽制もまず無難に進んでいるという報せもまた、それに一役買っているのだろう。
 昼の間、テアは以前と同じように厨房の奥に引っ込んでいる。青い目にコンプレックスがなくなったとは言え、目立つことはやはり好ましくはないからだ。表舞台に立つ気が起こらないのは、環境要因というよりは元来の性格に因るものだろう。
 そうしたある日、食材を分けていたテアのもとに、給仕をしているはずの娘が突然顔を覗かせた。
「なんか、テアに客が来てるけど」
「客?」
「んー、なんか怖そうな人」
 宿屋の娘は性格的に悪い子ではないが、些か要領が悪い。せめて名前と用件くらいは聞いておけないのかと思いつつ、いつものことだと頭振る。
 諦めつつカウンターの方へ向かえば、通いで働いている同僚が、にやにやと綺麗な顔に親父くさい笑みを浮かべながらテアを振り返った。
「あそこ。なかなかいい男だと思うんだけどねー」
「あ」
 いつ引っかけたの、と好奇心満載で問う同僚を置いて、テアは奥の席へと駆け寄った。店の隅で、水を前に座っていた男が、それを認めて顔を上げる。
「久しぶり」
 カイである。
「無事帰れたようだな」
「……それ、すんごく前の話ですよ」
「それもそうか」
 笑う顔には屈託がない。変わらないな、と思いつつテアは首を傾げた。
「なんか、アンナがやたらびびってましたけど、何かしました?」
「アンナ?」
「さっき応対しませんでした? 宿屋の娘さんです」
「ああ」
 頷き、カイは苦笑する。
「あんたを呼べって言ってるのに要領を得ないから、ちょっときつく言っただけなんだがな」
 テアは乾いた笑みを浮かべた。なんとなく、その場面が想像できる。態度も身なりもそこそこいい若い男、に宿屋の娘はふらふらと反応したのだろう。カイの方はと言えば、基本的に親切ではあるがけして甘い人物ではない。
 緩く頭振り、テアは改めて彼に問うた。
「ええと、それで、今日はわざわざ来てくださって、どうしたんですか?」
「いや。仕事帰りに飯でもと思ったら近くにあったから」
「……ですよねー」
 少しばかり、会いに来てくれたのかと思った自分に苦笑を向ける。
「もう注文されたんですか?」
「いや、それでテアを呼んだんだ?」
「? 料理内容の説明なら、私よりさっきの子の方が詳しいですけど?」
「おかしいな。メニューにはなかったんだが」
「?」
「この前、雑炊くれただろ。あれ、胃が弱ってるときに丁度良かったから、あれ食べたいなと思って」
「雑炊、ですか?」
 面食らい、テアは何度も瞬いた。けして上品な店ではないが、さすがに昼食時に雑炊というメニューはない。第一、カイがこの店に来たのは始めてではなかろうか。
 指摘をすれば、カイは可笑しそうな笑みを浮かべた。
「まだ判らない? あんたが組合を訪ねる前の日、夜、浮浪者がいただろ」
「それはそうですが」
「あれ、俺なんだ」
「……、……は?」
 動きを止め、テアはまじまじとカイを見つめた。――あの浮浪者は死んでしまったのではなかったのか。
「仕事だったから詳しくは話せないけど、あの浮浪者の男を仲介に厄介な薬が出回っていたんだ。彼はまぁ、自覚はなかったし、巻き込んで死なせてしまったのは悪いと思うが、そういうわけで、俺は潜入捜査してたってわけ」
「はぁ」
「でも全然ターゲットが現れなくて、本気で腹が減ってどうしようもなくなったときに、あんたが助けてくれたってわけだ。本当、限界だったから助かった」
「限界って、何日食べてなかったんです?」
「丸二日」
 そんな裏情報をいい笑顔で言われても困る。そう思いながらテアは、先日、ヒューイと話した内容をふと記憶から引き出した。
「あの、もしかして、一飯の礼って……」
「そういうこと」
 ここで思わず脱力したテアを、誰が責められようか。


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