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 *

 鏡に向かって首を傾げる。鏡の中の人物も対称的に頭を傾けた。
 目を眇めてみせる。男でしかない顔が、睨むように見つめてきた。
 頬を抓ってみる。見飽きた兄が、痛そうに顔を顰めた。
(……兄様だ)
 何度見ても、どう見ても、自分の顔が兄に見える。口元を押さえる手はあり得ないほど厳つく、視界もまた奇妙なほどに高い。クリスティンは確かに女としてはかなり背の高い部類に入ったが、それでも、ここまで見下ろすことは無かったはずだ。
 肌触りの良い生地で作られた服を摘んでみれば、ふくよかとは対照的な意味で立派な大胸筋。更にその下には見事に割れた腹筋が存在を主張する。腕を曲げれば盛り上がる上腕二頭筋。触れば弾力があって固かった。
 他にも気になる箇所はあるが、一応乙女に分類される年のクリスには、確かめる勇気がない。
(しっかし、いい体、……じゃない、どこ見てるんだ、私!)
 端から見ればひとり百面相、といったところだろう。パントマイムよろしく、鏡を前に不可解な行動を繰り返したクリスは、受け入れざるを得ない現実に頭を抱えて踞った。
(入れ替わった……のか?)
 子供向けの絵本の題材で見たことのある「入れ替わり」。魔法使いに悪戯をした子供が罰として体を入れ替えられてしまうという、教訓を含めた内容だ。だがむろん、それはあくまで子供受けを狙った「お話」であり、当然のことながら魔法使いなど存在しない。大昔にそういった存在を迫害したという歴史は存在するが、事実は単なる宗教弾圧を誤魔化すための方便だ。
 では、何故このような事態が生じているのか。
(兄様の体、って、ちょっと待て、じゃあ私の体はどうなってるんだ!?)
 兄が自分に、と考えるだけで恐ろしい。無愛想なクリストファーは、クリスティンが笑顔を引き攣らせながら築き上げてきた交友関係を、ものの見事に破壊してしまうに違いない。女の世界は難しいのだ。
(いや、違うだろ、私! そんなこと、どうでも……いいことはないけど、それ以前にいろいろあるでしょうが!)
 思い、髪を掻きむしる。腹の立つことにもともと短い兄の髪は、そうしたところで乱れるほどのこともなかった。
 苛立ちをぶつけることもできず、強く眉間に皺を寄せ、奥歯を噛みながら立ち上がる。動揺のままに何度も室内を往復し、意味もなく天井を睨み、――そうしてクリスは、ふと違和感に気が付いた。
(……実家?)
 見知った場所だ。否、よく知っているが故に、それまでおかしいとも思わなかった。
(だって、兄様は)
 結婚して自分の居を構えたはず。
 どういうことだ、とクリスが顎に手を当てたとき、廊下へと通じる扉が控えめな音を発した。
「失礼しま……」
 礼儀正しく入室してきた女が、顔を上げた瞬間に言葉を止める。見開かれた目は勿論、真っ直ぐにクリスを凝視していた。
「……アディ」
 見知った顔に、反射的に名が滑る。僅かに掠れた低い声を受けて、アディことアディラ、――特徴的な赤毛の使用人は悲鳴の形に口を開けた。
 クリスが、しまったと思う間もない。
「だ、誰か! 若様が!!!」
「アディ!」
「若様がお目覚めに!」
 制止の声も虚しく、その悲鳴に応じてやってきた面々は、戸惑うクリスに向かって同じく驚愕を示し、次いで泣き笑いの表情を浮かべた。
 困ったのはクリスである。状況も掴めぬままに、大勢の前に出る羽目になってしまった迂闊さを盛大に呪ってため息を吐く。
「若様、お加減が……?」
「……いや」
 はっとしたように気遣うアディラ他、集った面々に向けて苦笑を返し、クリスは緩く頭振った。
「それよりも、状況が判らない。これはどういうことだ?」
 曖昧な問いにしたのは、むろんわざとのことである。とにかくも、下手なことは口に出来ない。この際、クリストファーが無口であまり多くを語らない性格だったことは大いに利用すべきだろう。
 とりあえずのミッションは、兄になりきること、そして状況を掴むこと。何故、や、どうして、といった疑問は後回しだ。
「ここはレイ家だな」
「はい。……その、こちらの方が人手が足りていると思いまして」
 言いにくそうに代表で答えたのは、集った中で最も地位の高いハウスキーパーである。
「なにぶん、あちらの家はメイドの数が足りません故」
「……そうか」
「奥様もひどく取り乱されておりましたので……。若様がお怪我をなさった翌日、つまり二日前にこちらにお運び致しました」
「怪我?」
 言い、クリスは寝衣しか纏っていない体を見下ろした。普段から露出している部分には確かに軽い擦過傷が残っているが、三日も昏睡状態に陥るような身体損傷は見られない。
 別段特筆すべき痛みや動きにくさもなく、精神と体がちぐはぐであるという不可解な現象以外は特に問題がないように思えるが……。
「――馬車の下敷きに」
「!」
 何かを堪えるような声音、絞り出された言葉に、クリスは頭を殴られたような衝撃を感じた。
(馬車……)
 眼前に迫り来る車輪が、脳裏に像を結ぶ。強烈なフラッシュバック。押し寄せる記憶と唐突なブラックアウト。
 よろめき、クリスは口元を手で押さえた。
「若様!」
 駆け寄るアディラを制し、クリスは近くにあった椅子へと腰を落とす。冷えた指先で髪を掻き上げれば、額から汗が流れ落ちた。
(……そうだ)
 最後の記憶が正しいのならば。
「私は……死んだんじゃないの?」
「そんな!」
「しかし、あの状況では」
「若様!」
 震える声で語尾を掠ったハウスキーパーはしかし、続ける言葉を失ったように唇を震わせた。顔を上げ、続きを促したクリスの視線から逃げるように、窓の方へと顔を向ける。
 果たして、重すぎる沈黙を破ったのは、両手を握りしめた蒼白なまでの顔色のアディラだった。
「――お亡くなりになったのは、お嬢様、……クリスティン様でございます」


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