[]  [目次]  [



「……!」
「若様と同じ事故で……」
 そこまでを気丈に言い、しかしそれが限界だったのだろう。アディラは短い嗚咽の後に言葉を詰まらせた。陰鬱な空気に押されるように、皆が沈痛な面持ちで頭を垂れる。
 クリスは、その様を茫然と眺めやった。正直、なんと言えばいいのかも判らない。それ以上に、どういうことかも判らない。クリスティン、つまりは自分が死んだという言葉だけが脳裏にこだまする。
「若様」
 アディラを後ろに下げたハウスキーパーが、気まずげな視線を躊躇いがちにクリスに向ける。彼女は純粋に、妹の死に衝撃を受けていると思っているだろう。
 うまく回らない頭の中で、クリスは今すべきことを考えた。いわゆる現実逃避だが、他にどうすることもできなかったと言える。
 これが正真正銘クリストファーであったのなら、彼はどうしただろうか。――妹の死を悼むだろうか。嘆く使用人たちを励ます側に回るだろうか。少なくとも、受けた衝撃のままに当たり散らしたりはしないだろう。思い、クリスも小刻みに震える拳を後ろ手に隠し、歯を食いしばる。
 だが、クリスにはそれが限界だった。
「……ごめん、少し、ひとりにさせて」
 ようやくのように絞り出された、ひどく掠れた声に思うところがあったのだろう。目覚めたばかりのクリスに不安を残しながらも、使用人たちは静かに頷いた。
 最後まで揺れる目で何度も振り返ったアディラを最後に、室内に再び静寂が舞い戻る。
 ふらふらとベッドの端に腰を掛け、クリスは吐き気すら覚える胸を強く押さえた。
(……生きてる)
 少しばかり忙しく胸を叩く鼓動は、あくまでも力強く生命あることを主張する。
(私が死んだ、だって?)
 信じられない、否、信じるだけの要素はある。最期に見た映像、あの状況で死んでいないという方がおかしいだろう。どれほどの重さがあるとも判らない馬車に、覆い被さるように押しつぶされたのだ。位置関係をもう少し思い出せば、――確かに、クリスティンより体ひとつぶん横へ逃げていたクリストファーであるなら、充分に助かる見込みはあった。
 そこまで考えて、では、自分は誰なのだ、という原点に戻る。
 目を閉じて、内面だけに意識を向けたのなら、間違いなくクリスティン・レイという人間であると断言できる。だが、肉体を視野に入れればその確証が容易く崩れ去ってしまう。
(判らない)
 自問自答を繰り返し、何度もクリスは拳で膝を打ち付けた。
(何だって、何だっていうんだ、これは!)
 固く目を閉じ、頭を抱える。行き場のない思いが浸食し、クリスの思考をかき乱した。起きた直後のように、現実逃避の浮ついた思考に走るには、知り得た状況の断片があまりにも深刻すぎたためだろう。そして、それを冗談と笑い飛ばせない記憶が、クリスの中に確かに存在した。
(判らない、判らない、判らない……!)
 握りしめた拳、爪が皮膚を裂き流れた血が服を汚す。
 そうして、――どれほどの時間が経過しただろうか。
「……誰かいるのか?」
 どうとも言い難い、妙な気配にクリスは顔を上げた。
 気を遣っているのか、使用人たちが部屋の周囲にいる様子はない。階下から窺っているにしても、それを感じ取るほどの能力はさすがに持ち合わせていない。
 だが、誰かがいる。間違いない。それも、クリスが気付くようにか、存在感をわざとらしく匂わせている。
「出てこい。――思わせぶりなことは止めてくれ」
 低い声で言えば、確かに室内の空気が揺れた。どこから窺っているのかと、クリスは視線を左右に走らせる。実家にある兄の部屋、つまりはこの室内に、人が隠れる場所があったとは記憶にない。閉じたままのクローゼットか、死角になっている入り口付近かと、あたりをつけて立ち上がる。
「隠れているからには、何か知っているんだろう?」
 出てこい、とクリスは低く唸り声を上げた。獰猛一歩手前の物騒な声音であったが、このような状況で、相手を気遣う余裕などはもちあわせていない。
「出てこい!」
「――ちょっと、待って」
 思わぬ返答に、クリスは目を見開いた。
「慣れないんだ。――たぶん、こうすれば、――いや、もうちょっと……」
 不思議な声が響く。若い男のものだ。だが、それがどこから発せられているのか、方向すら掴めない。
 思わず立ち上がり、クリスは部屋の中央へと歩を進めた。そこからなら、室内全体が見回せる。誰がどこへ隠れていようと、見逃すはずはない。
 だが、そこには誰もいなかった。
「……どこにいる」
 声が焦りを孕む。得体の知れないものに対する恐怖と苛立ちの狭間で、クリスの掌はじっとりと汗を含んだ。
 眺め、目を凝らし、数秒。
 突然、――そう、まさに突然。何の前触れもなく、それはクリスの目の前に出現した。
「!」
 巨大な光の靄。見る間に膨れあがり、室内を埋め尽くし、そして急速に凝る。驚愕に引き攣るクリスの眼前で、それが人の形を為すまでにはさほど時間を要しなかった。
「――ああ、これでいいや」
「なっ……」
 後退ったクリスに向けて、出現した男はにこりと笑みを浮かべた。人懐こそうな、自然な微笑。万人受けする優しげな容貌の他、姿形に特筆すべき所はなく、無難という言葉が丁度当て嵌まる。今まさに目撃した不可思議な現象さえなければ、第一印象としてはけして悪いものには成り得なかったに違いない。
「はじめまして、と言うべきかな」
 クリスの混乱を敢えて脇においたように、男は一方的に言葉を続けた。
「本来なら名乗るべきなんだけど、僕に名前はない。だから、好きに呼んでくれたらいいよ」
「……」
「よろしく。『クリスティン・レイ』」
「!」
 呼ばれた名に、クリスは弾かれたように男を見つめた。
「私を……」
 からからに渇いた喉に、無理矢理唾を飲み下す。
「クリスティンと呼ぶの?」
「それ以外に名前はないだろ?」
「クリストファー、じゃないの?」
「それは、肉体の名前だね」
 あっさりと男は、クリスの葛藤を切り落として笑う。
「君は『クリスティン』で間違いないよ」
「――本当に?」
「うん。ちゃんと魂にそう刻まれている。これは、どうやったって変えようがないんだ」


[]  [目次]  [