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 意味はよく判らない、だがきっぱりと断定されたひとことに、クリスは足の力が抜けるのを感じた。そのまま茫然と、絨毯の上にへたりこむ。過度の緊張に耐えきれなくなったのではない。むしろそれは、緊張がふつりと切れるほどの安堵によるものだった。
 視覚的、或いは他人から与えられる情報からくる自己同一性の崩壊。その極限の状態にあったクリスを、男の言葉はあっさりと救ったのだ。それを知ってか、泣き笑いのような表情を浮かべるクリスを見る男の顔は、慈悲深いまでに穏やかだった。
「……そうか。私はクリスティン、でいいのか」
「心を以て、人を人と定めるなら、だけどね」
 見上げ、首を傾げたクリスに、男は小さく頷いてみせる。
「クリストファーという人間を、彼の過去や思考を持って定めるというのなら、君はクリストファーじゃない。でも、あくまで肉体を持ってそうと定めるなら、君はクリストファーということになる」
「回りくどい言い方だけど、ようするに、身体自体は見えているとおり、兄様のものだっていうこと?」
「君には悪いけど、その通りだよ」
 クリスはびくりと体を震わせる。
「だけど、さっきも言ったとおり、人を人として認識するのはやはり最終的には心だと思う。だから君はクリスティン」
「なんでそんなおかしな事になってるのか、あなたは知ってるということ?」
「正確に言えば、判らない」
「じゃあ、あなたは何者?」
「エネルギーを失い完全に死を迎えた魂を導き、はじまりの場所に還す役目を負った生き物……とでも言えばいいのかな。正確には何者かなんてわからない。仲間の間では『導き人』と言ってるよ」
 導き人、とクリスは口の中で繰り返した。
「僕は君を迎えに来たんだ」
「私?」
「そう。死んだ君を導きに来たんだ」
 クリスは知らず、体を震わせた。
 クリスティン・レイは死んだ。やはりそれは、覆しようのない事実であるようだ。だが、肉体を失ったはずのクリスティンの精神は、何故かこうして残っている。反対に、肉体の残っているクリストファー・レイは、彼の精神はどこへ消えたというのだろうか。
 問えば、男は困惑顔で緩く首を横に振った。
「どうしてこうなっているのかは、僕らにも判らないんだ。ただひとつ確かなのは、本来あの時間に死んでいるのは君、クリスティンだったってことだけだ」
「私の死? 兄様は巻き込まれたっていうの?」
「それは判らない」
「判らない? あなたは、死に神とかそういう類の生き物じゃないの?」
 言えば、男は口を尖らせた。人外の存在であるというのに、いやに人間くさい。
「死に神じゃないよ。それに仕方ないんだ。もともと、人の寿命とか運命なんて決まってないんだから」
「は? あなたさっき、私が死ぬ予定だったって言わなかった?」
「だから、それだけは決まってた。君たちに生きてる人に分かり易く言うと、『魂』のエネルギーが尽きる瞬間だったからってこと。――いいかい。生物の魂は輪廻転生を繰り返す。だけどそれは無限じゃないんだ」
 続く、彼の話を要約すると次のようになる。
 世界には巨大なエネルギーの塊である場所、――曰く、「原初の海」があり、すべてのエネルギーはそこから生まれそこへ還っていく。人が魂と呼ぶものは、そこから分離して殻を纏ったエネルギーのひとかけらであるが、そのエネルギー量が一回の一生の長さを決めるというものではない。何度も生と死を繰り返し、やがて全てのエネルギーの尽きたときに本当の終焉を迎える。その最後の炎、エネルギーを失った抜け殻は、普通であればそのまま原初の海を目指して消えていくのだ。
 だが稀に還り方を忘れ、生前馴染んだ場所や墓場を彷徨う魂がある。それらを原初の海へ誘導するのが、今、クリスの目の前にいる男のような「導き人」だと言う。
「エネルギーが尽きるまで、何度も転生を繰り返す。けれど、尽きたときには、どんな生物になっていたとしても、その時点でその生物の死を迎え、魂は原初の海に還らなければならない。ルールはそれだけ。それまでは持ち得たエネルギーを何の生物に変え、どう使ってもいい。分離したときのエネルギーの量も違うから、どれくらい持つのかも判らない」
「……つまり、私はそうやって何度も生き死にを繰り返した魂の、最後の生だったってこと?」
「そう。幾つもの経験を重ねた、とても古い魂だ。深みがあって力強い立派なものだ。けれど君自身の活動のエネルギーは完全に尽きている」
 完全な死を迎えた、ということなのだろう。
「だからこそ、今の状態になっているのかも知れないけど」
「どういうこと?」
「本来、他人の体に他人の魂が入り込んで、――悪い言い方をすれば意図して乗っ取る、ということは基本的に不可能なんだ。生物の肉体と魂の持つエネルギーの結びつきは強い。だから、死んだと強く勘違いした場合や、世を儚んで死ぬことしか考えてないってくらいに精神的に弱った状態でない限り、その魂を追い出して肉体を乗っ取るなんて真似出来ないんだ。健全な魂が宿っている限り、そこに割り込んでくる別の魂は弾き出されてしまう」
 逆に言えば、非常に肉体的にも弱っている状態や自殺寸前にまで追い詰められている者の魂なら、肉体から追い出すことが出来ると言うことだ。だが、クリストファーにそのような兆候はなかった。
 事故に遭う直前まで、真面目で堅物で融通の利かないいつもの兄だったことを思い出し、クリスは緩く頭振る。
「ものすごく嫌な質問だけど、死体に入り込むこともできないの?」
「それはできる。普通に生物が死んだ場合は、その瞬間に体と魂の関係が切れるからね。けれど、持ち主の魂が抜けると肉体はすぐに活動を止める。脳に血流が途絶えて数分で障害が生じるわけなんだけど、――とにかく、これは他人の魂が入り込んだところで不可逆的な症状だ。つまり、死んだときに側にあった死体に偶然入ることはできても、その瞬間まで進行してた肉体の障害はどうにもならない。」
「新鮮な死体を探して彷徨うとか……」
「可能と言えば可能だね。ただ、死んで肉体から離れた魂は急速に自我を失う。それこそ数秒の話だよ。突発的に、強い思いや予想外の偶然から、君のように他人の体に入り込むことはあっても、選り好みする余裕はないね」
 可逆的な要素のある発作で死んだ人間が偶然近くに居り、更にその直後に死んだ他人が偶然にもその体に入り込む。あり得ない、と言い切れる話ではないが、その確率は分子に1を、分母に天文学的数字を持つほど稀少な例と言えるだろう。
 だが、とクリスは食い下がった。
「兄様が深い昏睡状態とか、死んだ私の魂とやらが偶然そこに入り込んじゃったとか、そういうのじゃないの?」
「ならない」
 語尾を否定形に変え、男ははっきりと首を横に振った。
「どちらも答えはあるけど、先に、クリストファーの体を乗っ取ったのはあくまで意図しない偶然、という説を否定するよ」
「……あなたは、私が兄様の体を無理矢理乗っ取ったって言いたいわけね?」
「言いたいと言うよりも、それしかないんだよ。さっきも言ったと思うけど、君にはもう、自分のエネルギーがない。だから例え他人の体に入っても、そして血縁の偶然から拒絶反応がなかったとしても、本来なら一瞬たりとも活動することが出来ないんだ」
「!」


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