[]  [目次]  [



 男の話は、あくまでの予想が根本にある曖昧なものには変わりない。しかし、方向性は示された。当たり外れはともかくとして、少なくともそれを追っている間は、足下の定まらない状況を嘆かずに済む。
 深呼吸を繰り返し、クリスはゆっくりと立ち上がった。膝や手はまだ細かく震えている。磨かれた窓硝子に目を向ければ、青ざめた顔の男が厳しい表情で立ちつくしていた。それを見て、クリスは皮肉気に嗤う。
 男の話は突飛に過ぎるが、それでも、これを見れば信じざるを得ないというものだ。
「――話は判ったわ」
 不思議な色合いの男の目を真っ直ぐに見つめ、クリスは無理矢理口端を曲げた。
「どうしていいのかは判らないけど、要は、自分の事は自分で考えなきゃってことよね」
「……ごめん。正直、僕はこうして説明する以外に、生きてる人に対しては殆ど何も出来ないんだ」
「謝らないで。あなたにも予想外の事だったんでしょ? 誰が悪いとかじゃなくて、誰のせいでもなくどうしようもないことってあるわよ」
 半ば自分に言い聞かせるように、クリスは続ける。
「とりあえず、私は、もし自分が死ぬと判っていたらこうしていた、って想像できることを全部やってみるわ。兄様の体じゃ、ちょっとやりにくいけど、なんとかやってみる」
「そうだね。それがいい」
「あなたは? それまで待っててもらうことになるけど」
「構わない。導き人は僕だけじゃないから。こうなった以上、僕は君の状態を把握しておく必要があるしね」
 今現在、おかしな状況ながら、「状態」としては安定しているが、前例がないだけに予断は許さないといたところだろう。
「勿論、四六時中監視してるわけじゃないから安心して。ただ、何かあればすぐに駆けつける」
「判った。何か聞きたいことがあるときは、こっちから呼ぶようにするわ。どう呼べばいい?」
「何でも。――そうだな、君が名前を付けてくれると良い」
「私が決めてもいいの?」
「そうじゃないと、呼ばれても聞こえない。君自身と僕を繋ぐ名前、という縛りを受けることが大事なんだから」
 微笑む男を見て、なるほど、とクリスは苦笑した。兄と自分、同じ愛称で何度もややこしい思いをしたとは言え、自分はクリスティンであるというところからは抜け出せない。名付けられた瞬間から、名前という束縛を受けている。つまりはそこにできる言葉と物との繋がり、それが重要なのだろう。
 しばし悩み、クリスはそこに敢えて意味を込めることにした。
「ゲッシュ、って呼ぶことにする。誓約って意味があるの」
「へぇ?」
「どこだかの国の神話で、人間が神様に対して立てる禁忌の誓いなんだけど。それを完遂すれば、祝福が得られるの。できなければ酷い目に遭うけどね」
 必ず、クリストファーを正しい状態に戻す、それまでは諦めない。そういう誓いだ。
 説明に男、ゲッシュは目を細めて頷いた。
「君の覚悟というわけだね」
「まぁ、そこまで大げさなものじゃないけどさ」
 ある意味好意的に過ぎる解釈に、慌てて話題を変えるべく、クリスは扉を指さした。
「それより、今のこの会話って、外には聞こえてないの? 結構な大声も上げたけど」
 問いながらも、おそらくは肯定の返事だろうと予測している。ゲッシュの声が外に響いていれば、不審人物の侵入を疑い誰何の声が上がることは必至、クリスの声だけという状況でも、異様なひとり芝居に誰かが意を決して声を掛けてくるだろう。
 少なくとも、この騒ぎに全く無反応ということはあり得ない。言えば、ゲッシュはやはり、事も無げに頷いた。
「外には聞こえないようにしてる。だけど、そうだな。そろそろ時間かな。物音ひとつしないから、君の家の人たちが心配してる」
「あらら。……まぁ、それはそうか」
「じゃあ、僕は一旦ここを離れるね。仲間に、過去にこういう前例がないかも聞いてくるよ」
 クリスが頷いたのを認め、ゲッシュはふわりと宙に浮いた。現れたときと同様、そのまま消えることも可能なのだろうが、敢えてひと動作、驚かぬように前行動を取ってくれるところが彼らしい。
「なんか、そうやってると、私じゃなくてゲッシュの方が幽霊みたいね」
「まぁ、似たようなものかもね」
 肩を竦め、ゲッシュは窓の方へ向かう。
「ああ、そうだ」
 いざ、飛び降りるように姿を消す、その直前、頭だけで振り返りゲッシュは含みのある笑みを向けた。
「どうでもいい話かも知れないけど。――その外見で女言葉ってのは、ある意味強烈だよ」
 今更の指摘に思わず鏡を見つめ、そうしてクリスは一気に顔を蒼くした。

 *

 ゲッシュが消えて数分、ようやくのように扉を開けたクリスは、そのまま隣接するクリスティンの部屋へと足を向けた。廊下の端で表情固く立ちつくしていたアディラが、はっとしたように顔を上げる。
「心配ない」
 混乱から立ち直ったことを告げ、心配を掛けたことを詫びるように微笑みを向けるが、それ以上の言葉はかけずに通り過ぎる。照れながらもしっかりと謝るのは「クリスティン」であり、「クリストファー」はある種、そういった素直な態度を取ることはない。これまでの兄の行動や言動を思い出し、クリスは顔の筋肉を引き締めた。
「鍵は?」
「特に。……幾つか、品をお運びした程度です」
「品?」
「その、事故の時に……、その、」
「わ……クリスティンがはじめから持っていたと判断された物か?」
「はい。ストーン様がお祝い返しにと用意されたうちで無事だったレース編みやオルゴール、ネックレスなどです。……申し訳ありませんが、法務省職員の審査後に引き取ったものですので、多少の傷が……」
「法務省?」
 クリスはそこで眉根を寄せた。こうした馬車による突発的な事故は年間少なからず起こっている。その際に事後処理中のもめ事の仲裁役として軍が出張ってくることはあるが、法務省はそこに明確な事件性やそれを示唆する強い訴えがない限り関与はしてこないはずだ。
 アディラの様子を見るに、レイ家側が何らかの申し出をしたようには思えない。となれば馬車に乗っていた側に某かの問題があったのだろう。そこに不穏なものを覚え、クリスはその身に起こっていることと合わせて胸中に重い物が溜まっていくのを自覚した。
 だがそれを表に出すことはなく、憤慨した様子のアディラにさして気のないような言葉を返す。
「まぁ、仕方ない」
 もらった直後であっただけにクリスティンの物という認識には乏しいが、「彼女」が最後に持っていたものであるには違いない。


[]  [目次]  [