[]  [目次]  [



 遺品、と呟き、クリスは扉に手をかける。
 物置ひとつ隔てた同じ階にあるクリスティンの部屋は、果たして、数日前と殆ど変わらぬ様子だった。カーテンが閉じられては居るが、隙間から傾いた陽が差し込んでいる為、そう暗くはない。
 クリスは、知らず喉を鳴らした。言葉にはできない感慨が胸の奥を叩く。
 ――ああ、あれは、楽しみにしてた芝居のチケットだ。
 一緒に行こうと義姉のエマと約束していた。更に視線を移せば、実用品しかないような部屋にも、女性が住んでいたことを偲ばせる品が目に入る。
 青や緑の色彩がメインの部屋の中で、唯一薄い赤のクッションは、初めて自分で作った物だ。練習用に適当な布を選んで作ったが、いざ仕上がってしまえば、妙な愛着が湧いた。
 窓際に飾られているカップは、かつてのお気に入りだった。癇癪を起こして割ってしまった後、兄が欠片を拾い、組み立てて残しておいてくれたのだ。
 子供の頃に女の子の間で流行ったカラクリ人形。決まった手順で回せば腰の部分が外れ、指二本分ほどの空間に物を入れることが出来る。友人が持っているのを見て欲しいと駄々をこねたら、兄が貯めた小遣いで買ってくれた。
(なんだかんだ言って、優しかった……)
 無愛想で一見素っ気なくはあったが、その実非常に情に篤い人だった。
 クリスは今から、そのような人物にならなければならない。思えば、頭を抱えたくなるような難題だ。内に激情を秘めたまま表面は凪いだ海のような人物、――生前のクリスティンもけして感情的というほどではなかったが、それでも真似をするのは如何にも難しい。
 不思議だ、とクリスは思った。脳自体はクリストファーのものであるはずだが、行動の元となる感情はあくまでクリスティンに準じている。本来この脳の中に、クリスティン独自の情報などないにも関わらず、だ。
(兄様の記憶を引き出せないのは、そのきっかけとなるものがないから、で済むけど……)
 単純に考えるなら、ゲッシュの言う魂に記憶が引きずられているということになるのだろう。そのあたりの仕組みについては、今度会う機会が生じたときに確かめるより他はない。
 ひとつため息を吐き、クリスはアディラへ目を向けた。
「この部屋はしばらくはこのまま?」
「はい。旦那様が、この先も残しておくようにと仰せです」
「そうか。……それがいい」
 はい、とアディラは滲む声で頷いた。兄妹揃って幼い頃から世話になっていた使用人だ。彼女の思いも複雑だろう。
 慰めたい衝動を抑えながら、クリスは再度部屋を見回した。
「父上は?」
「旦那様は、明日の朝お戻りです。今朝まではいらしたのですが」
 事故から数日、息子の身を案じて仕事を休んでいたということだろう。国内でも屈指の輸送業の経営者となれば、そうそうに抜けることもできはしまい。
(まぁ、急ぐこともないか)
 クリスティンの部屋も、残されるとなれば今すべきほどの用はない。クリスはアディラを促してその場を後にした。
「さて、何か食べるものはあるか?」
 現状を打破するために試したいことは多々あるが、まずは日常生活を落ち着けなくてはならない。
「軽い物でいいのだが」
「はい、勿論用意致しております。絶食の後ですから、病人食でございますが……」
 絶食、という言葉に、クリスは今更ながらに首を傾げた。
(そういえば……元気すぎるな)
 絶食期間、或いはベッドから動かなかった時間の長さを思えば、今クリスが問題なく起きて歩いていることは驚愕の域に達するだろう。普通なら、栄養状態は悪化し、筋力は萎え、目覚めたとしても衰弱が目立つはずだ。
「若様?」
 問うような声に、クリスははっと視線を上げる。
「如何なさいました?」
「いや、……長い間寝ていた割に、そう体力が落ちているわけでもないな、と思って」
「それは……」
 言い淀むアディラを見つめ、クリスは続きを促した。
「その、お医者様が冬眠なさっているようだと、仰いました」
「冬眠?」
「とても体が冷たく、……その、初めは皆、」
「死んでると思ったか」
「! その、申し訳ございません!」
 膝に付きそうなほど頭を下げるアディラを見て、クリスは小さく苦笑する。確かに、生きている本人を前に言いにくいことではあるが、そう思われても仕方のない状態だったのだ。何故そういう状態に陥ったかは想像の域でしかないが、おそらくはクリスの魂が別人の体を完全に乗っ取るまでの期間だったのだろう。
 当座ベッド生活を送らねばならぬほどの衰弱状態にはならなかったことに、むしろクリスとしては偶然を感謝したい勢いだ。
「謝らなくて良い。死にかけていたことは確かだ」
「若様!」
「怒るな。だから、元気になるために何か口に入れる、と言っている」
 はっとしたように、アディラは口元に手をやった。
「とりあえず、少し食べて様子を見てみる。夕食をどうするかはその時に決める」
「……はい、厨房に、そう言いつけて参ります!」
 再び礼をとり、アディラは勢いよく身を翻す。その背中をやはり苦笑いをもって見送り、クリスはゆっくりと階下への階段へ向かった。
(アディにおかしいと思われなかったから大丈夫、かな)
 鋭く言い切る口調は、なかなか慣れるものではない。それでも言い淀まなかったのは、アディラへとの会話の中に予想外のものがなかったからだ。だがこの先、突然話題を振られる、ということも当然あり得るだろう。そういったときのために、地が出ないよう常に意識しておかねばならない。
(大丈夫だ、やれる)
 だが、緊張から来る疲労感だけは如何ともしがたい。
 少しでも気を取り直そうと、クリスは先に洗面所へと足を向けた。正面の大きな鏡に映る姿に眉根を寄せ、自分に向けて口を尖らせる。
(可愛くない……)
 当たり前だが、如何にも骨格のしっかりした成人男性が拗ねても、愛嬌の欠片もない。備え付けのポンプから水を汲み出し、冷水で顔を洗えば、更に顔は鋭さを増す。整った顔かたちは兄のものながら見惚れるものがあるが、それはあくまで女の視点で眺めれば、の話である。自分は今この男なのだと認識した以上、さすがに自惚れる気にはなれない。
 そこまでを思い、クリスははっと目を見開いた。
「……ちょっと、待て」
 呟き、クリスは視線を下へ向けた。胸を降りて臍を過ぎ、更にその下に問題がある。
「……」
 身震いひとつ。自慢ではないが、クリスは男の下半身なぞ、幼少時以降目にしたことはない。つまりは二十二年間甘いお付き合いなどしたことがなかったと言うことだ。貞操観念の固い、と言えば聞こえは良いが、要するに色事には全く興味も縁もなかっただけの話である。
(それはいいんだけど、いや、あんまり良くないんだけど、そうじゃなくて……!)
 本人には極めて深刻な葛藤の後、意を決して手洗いへ向かう。
 ――果たして、数分後。
「……、……」
 げっそりとやつれた面持ちで、クリスは洗面台に額を乗せた。他人には説明しがたい何かが両肩にのしかかり、これまでにない脱力感を覚える。最初にして最大の試練は乗り越えたと思うべきか、――否、早くも心が折れそうだ。ある意味、既に死んでいると聞かされたときや、人の体を乗っ取ったなどといった不思議体験をそうと呑み込まざるを得なかったときよりも、現実的な衝撃は強かったかも知れない。
 興味以上の恐れを振り払い、なんとかやり遂げた。だがむろん、これは序の口だ。この先長く、クリスティンの知ることのない男の世界が待ち受けている。クリストファーの勤め先は軍隊、つまりは究極の男社会だ。
(私は男、今は男、……ってのは、判ってるんだけど!)
 想像に、目眩を感じる。
 病身という言い訳が通る間になんとか慣れる方法はないかと、クリスは頭を抱えてしゃがみ込んだ。


[]  [目次]  [