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2.


 事故後の初出勤の日、クリスは朝からざわざわと落ち着きのないものを感じていた。おそらくそれは自分の中にある緊張であり、周囲の心配と興味にもよるものだろう。
 父と使用人たちに見送られて屋敷を後にする。比較的内陸に位置する王都の朝は、昼との温度差が激しい。真夏とも言うべきこの季節、陽光を斜めに投げかける早朝は、まずまず快適な時間帯と言えよう。
 この日の仕事は、主に挨拶回りと体調の確認だ。目立った怪我はないとは言え、三日間もの奇妙な昏睡には医師も首を捻っている。一見元気そうに見えるが一応の安静を、と念を押されていた。
(とりあえず、内部の把握と交遊関係の把握だな)
 軍の訓練施設には、基本一般人は立ち入ることが出来ない。以前、兄を説得して目立たぬよう内部見学をした経験があるが、それにしてもさすがに重要な場所は省かれている。目覚めてより一週間、部屋の中を漁り出来る限りの情報を頭に入れてはいたが、むろん、それは全てではない。クリストファーは比較的真面目な性分ではあったが、日記を書き続けるほどマメな男ではなかった。
(まったく判らないってわけじゃないのは助かるけど……)
 未だ戸惑うことではあるが、ふとした拍子にクリスティンのものではない記憶が出てくることがある。それは主に誰が知っていてもおかしくないことであり、言ってみれば初めて見るものに既視感を覚えふと言葉が付いて出る程度のものだ。おそらくそれらは、クリストファーの脳に保管されている情報なのだろう。それらが有益であることには間違いないが、問題はそれを自由に引き出すコツが掴めていないことだ。何かある度に偶然ぽっと出る記憶に頼るのは危険に過ぎる。
 人目を避けて辿り着いた軍部、その象徴たる騎士と馬の像を見上げ、クリスは深々とため息を吐き出した。
「……よし」
 無理矢理やる気を捻りだし、クリスは敷地内に足を踏み入れる。
 と、正面から手を振って走り来る人影に気が付いた。目を凝らせば癖のある黒髪、見遣るクリスに向けて両手を振る。
「アントニー」
 見知った人物に若干の安堵を覚えつつ、クリスは手を振って合図を返した。アントニー・コリンズは、クリスと同じ歩兵師団に所属する同僚である。実家をレイ家に近くに持ち、幼少時から兄妹ともに交流のある彼は、裏表のない性格が老若男女問わず人気のある好漢だ。その付き合いの長さからしても、クリストファーにとっては気の許せる存在のはずだ。
 待つほどの間もなく軽快に寄ってきたアントニーは、大振りの笑顔でクリスの背中を叩いた。
「元気そうだな」
「おかげさまで」
「今日から復帰か?」
「いや、挨拶だけだ。たぶん復帰はしばらく後になる」
 医師から忠告を受けていることを話せば、アントニーは幾分神妙な顔つきに変えた。もともと陽気な質のこの男にしては珍しい表情である。
「安静にしてろ。……お前にまで何かあったら、クリスティンが向こうで悲しむだろうが」
 ぼそりと呟かれた言葉に、クリスは胸の内で苦笑した。言うわけにもばれるわけにもいかないが、なにせそのクリスティンは目の前におり、更にいうなら彼の言う「向こう」、つまり死後の世界など実質存在しないことを既に聞かされてしまっている。
 表に出そうになる感情をギリギリのところで食い止め、クリスは無表情に僅かな痛みを混ぜた顔でアントニーを見返した。
「そうだな。自重する」
「おう。それで、今から団長のところか?」
「いや、とりあえず直属の長でいいとのことだ」
「ああ、じゃあ気が楽だな。お前んとこの隊長はさっきは練兵場にいたぞ」
 言い、アントニーは親指でその方を指し示す。練兵場は広く、目的の人物を捜しだすという手間は加わるが、場所自体が判らない場所ではない。誰それの執務室などと言われればお手上げ状態だったため、まずまずありがたい情報だと言えよう。
 そのままアントニーと共に練兵場に向かったクリスは、昇り始めた陽の強さに目を細めて空を仰いだ。
「暑いか?」
「……いや」
 一旦否定の言葉を向け、しかしクリスは、その直後に膝を折った。
「だ、大丈夫か?」
 咄嗟に手を伸ばし、アントニーが慌てた声を上げる。
「病み上がりに無理すんなよ」
「大丈夫だ」
 言い、クリスは自力で立ち上がる。深く息を吸い込めば、一瞬の強烈な脱力感は嘘のように消え去った。
(またか)
 これは、けして初めてというわけではない。正確には三度目であり、初めは目覚めた翌日に、次はその明後日に、全く同じ症状が何の前触れもなく起こった。繰り人形の糸が切れたような感覚で、つまりそれは、他人の体を操っていることの弊害なのだろう。
 次第に間隔が延びているのは、時間と共にそれだけ馴染んでいっているということか、或いは単に体調が良くなっていっているのか、そのあたりは判らない。ゲッシュが首を傾げていることは、深く考えたところで無駄だと割り切ることにしている。
 そんな苦笑いに気づくことも無く、アントニーは心底気遣わしげにクリスを見上げた。
「休んでろよ。お前んとこの隊長、呼んできてやるからよ」
「結構だ。心配性にもほどがある」
「そりゃ、お前、――あんなとこ見ちゃあなぁ」
 尻窄みに小さくなる語尾に、クリスは眉を顰めて隣を見遣る。問うような視線に気づき、アントニーはあからさまに顔を背けてあらぬ方を見遣る。彼の心情をひとことで言うなら、しまった、といったところだろう。
「あんなとこ?」
「気にすんな」
「アントニー」
 咎めるように低い声を出せば、果たしてアントニーは、渋々といった呈で降参するように両手を上げた。つくづく隠し事には向いていないな、とクリスは短く苦笑する。
「笑うなよ。別に大したことじゃない。お前が怪我をした日のことだ」
「あの日? ――そういえばお前も、モニカ・ストーンの家に居たな」
「そうそう、って、なんでお前が知ってるんだよ」
 指摘に、クリスの心臓が激しく一拍を打つ。あの日、件のストーン家に客として入ったのはクリスティンであってその兄ではない。クリストファーはあくまで、妹を迎えに門前で待っていたのみだ。クリスティンよりも先に屋敷に入っていたアントニーの姿を、当然クリストファーが見ているはずもない。
 全力疾走した直後のように自己主張を繰り返す鼓動を意識しつつ、クリスは引き攣った笑みを浮かべた。
「妹に聞いていた」
「え? ――あれ、俺も行くって言ってたっけな?」


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