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 我が家、という実感もないクリストファー・レイとエマ・レイの住居は王都の中心部から離れた雑多な町中にある。比較的中央通りに近いため利便性は良いが、若干手狭な家に足を踏み入れたとき、クリスはその家屋に漂うある種陰鬱な空気に眉根を寄せた。
「だ、旦那様!?」
 出迎えたのは唯一の使用人であるカミラ・コール。38才になるベテランで、厨房から客室まで、家の中の管理を一手に引き受けている。経済的にそこそこ裕福な、しかし羽振りよく振る舞うにはいささか余裕のない家によく居るオールマイティなメイドだが、ふくよかな体格も相まって雰囲気は農家の主婦に近い。
 クリスの記憶によれば、見かけによらず機敏に働く落ち着いた女性であったはずだが――
「どうしてここに!?」
 言葉遣いもさることながら、妙にひっくり返った音程のおかしな声に彼女の動揺が存分に含まれている。一瞬眉を顰め、だが気を取り直して苦笑したクリスは、彼女を宥めるように落ち着いた目で見下ろした。
「ここは自分の家だと思ったが」
「は、その……! いえ、その通りでございますが」
「帰ってこられるとまずいことでも?」
「い、いえ、その……」
 エプロンの裾を握りしめ、視線を忙しなく彷徨わせている。質問を肯定するかのような行動に、クリスは腕を組み顎に手を当てた。そうして玄関から見える範囲を一通り見回し、最後に彼女にカミラに視線を戻す。
「静かだ。取り立てて変わった様子はない。となると、隠したいのは人間、つまりはエマか?」
「っ、……」
「何があった?」
 問い詰めるでもなく、あくまで平静を保った声で問いを重ねる。実際、クリスにさほどの緊張はない。現在その身に起こっていることを思えば、人間のしでかす大概のことは常識内に収まるというものだ。
 そんな凪のような雰囲気に感化されたのだろう。何度か深呼吸を繰り返したカミラは、胸の前で手を組み合わせ、床を見つめたままゆっくりと口を開いた。
「奥様は伏せっておいでです」
「もともと、さほど丈夫でもないだろう」
「それが……、お体の方に病を得ているわけではなく……」
「精神的なもの? 俺はもう快復しているが」
「……それは、お伝えしているのですが」
 忙しくなく指を組み替えながらカミラは語尾を濁す。つまりは、彼女にもエマの不調の原因が判らないのだろう。
 だが、クリスは家の雰囲気、カミラとの短い会話でおおよそのことを把握していた。彼の今の思いを短い言葉で表すなら「案の定」ということになるだろう。
(こうなってると思ったから、余計に後回しにしてたんだけどなー)
 エマの気質はというと、ひとことで言えば「内向的」に尽きる。外に出して発散するクリスティンとは対照的に自分の中に溜め込み、ゆっくりと自分で昇華していくタイプだ。最終的に同じところへ行き着くとしても、エマのそれはそれなりに時間がかかる。
 現在一番近くにいるカミラは気の利く話しやすいタイプであるが、エマとは顔を合わせてまだ短く、何もかも話せるほどの付き合いは無い。おそらくは本心をさらけ出す場所が無いまま、あれこれと自分を奮い立たせている最中なのだろう。
 こめかみを掻き、クリスは天井を睨みつけた。
(どうするかなー……)
 ある意味長い付き合いであるクリスにしてみれば原因は明らかだ。だが、それを大前提にどう立ち直らせるかに頭を悩ませる。則ち、冷静に諭すか強引に目を覚まさせるかの二択で、当然放っておくという選択肢はない。「クリスティンの未練」には最も近しい友人でもあったエマが絡んでいる可能性があるからだ。
 しばし沈黙の後緩く頭振り、クリスはカミラを連れて二階へと上がった。
「エマ、居るか」
 居ると判っていながら、前振りに声を掛ける。そうして返事を待たずに扉を開けたクリスは、驚いた顔で身を起こすエマを認め、大股で部屋の奥へと歩き進んだ。
「無理はしなくていい。辛いなら寝ていろ」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか」
 甘い言葉と笑顔で妻を抱擁する、――という趣味はクリスティンにはない。兄妹共にその方面の雰囲気をぶち壊しにすることで有名だったくらいである。おそらくはクリストファーも、蕩けるような睦言とは無縁の新婚生活を送っていたに違いないと決めつけ、クリスはエマの、汗の張り付いた額に手を当てた。
 熱はない。多少衰弱した様子はあるが、真っ直ぐに背を伸ばして座っていられるなら問題ないだろう。ひととおり妻の様子を観察したクリスは、一巡して彼女の目に視線を戻した。
「久しぶりだな」
「――申し訳ありません」
「何が?」
「あなたが意識を取り戻したと報告を受けておきながら、――私は」
「気にするな。互いに体調が悪ければ、構い合うことも負担になる。俺も敢えてお前を見舞おうとはしなかったからな。お互い様だ」
 ガードナーが居合わせれば間違いなく突っ込みを受けそうな言葉であるが、詳しい理由を省いているだけで結果としては嘘ではない。
「それで、体の調子はどうだ?」
「大丈夫ですわ。少し、暑さに負けてしまっただけですもの」
「そうか」
 青白い顔で微笑むエマを見つめ、クリスは目を細めた。
「では、大丈夫だな」
「え?」
 微妙に前後の繋がらない言葉に、エマは軽く首を傾げる。そんな彼女を可愛く思い、真実笑みを浮かべながらクリスは腕を振り上げ、
「!!?」
 エマの頬を平手で引っ叩いた。
 高い音が不自然なほどに室内に響く。クリスは右手は綺麗に左上方へ抜け、エマの顔は綺麗に45度横を向いて制止した。部屋の入り口でカミラが、目を丸くしたまま直立している。悲鳴を上げる暇すらなかったのだろう。
 たっぷりと十数秒、時が止まったかのような沈黙の後、クリスはようやくのように口を開いた。
「――と、クリスティンならやったはずだがな」
 ゆっくりと腕を脇に戻し、クリスは静かな声で告げる。
「逃げるな。クリスティンは死んだ。理解しろ」
「……!」
「お前は生きてる。なのに死んだ人間の世話になる気か? 想うのは自由だ。いつまでも想っていてやるといい。だが、死者に縋るな」
「旦那様! そのような、」
「黙れ」


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