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 離れた位置から批難の声を上げるカミラを強い語調だけで止め、クリスはエマの顔を覗き込むようにして言葉を継ぐ。
「死んだ者の時間はそこで止まる。お前は腹の中にも未来を宿しているというのに、クリスティンに甘えたまま立ち止まるのか?」
 ――そう、エマは夫の事を嘆いているのではない。それもあるとしても、悲しみの主成分は友人の死に対するものだ。
 自惚れでもなんでもなく、クリスはごく冷静な判断でそう断言できる。
「冗談じゃない。俺がクリスティンなら、振り払って蹴飛ばしてやるところだ」
「……」
「いいか、妹は死んだ。それが現実だ」
 繰り返し、クリスははっきりと告げる。エマは青い唇を震わせた。
「判っています」
「解ってない。妹はもう二度とお前の前に現れることはない。俺と違ってな」
「!」
「人が死んだんだ。思いっきり泣き、喚くといい。お前にはその権利がある。それを捨ててまで夫の無事を喜ぶ必要はない。生きている俺とはまだ喜び笑いあう時間がある。だから死んだ奴を最も悼む時に、無理矢理嗤う必要はない」
 くしゃり、とエマの顔が歪む。
「人が死んだら哀しいんだ。お前は正しい。周りに合わせて、哀しみを喜びで覆い隠すなんて馬鹿げてる。だから、人前で泣いたって良いんだ」
 言い、今度こそエマを引き寄せ、クリスはその広い胸で彼女を隠す。それはエマを励ますときいつもクリスティンが宥めるようにやっていたことであり、夫としても妥当な行動であった。
 降って湧いたような不幸な事故、悲劇の中からの生還、そして同時期に発覚した妊娠という喜ばしい出来事。その裏で比重を軽くしていく独身女性の死。友人の死を泣きたいのに泣ける雰囲気ではなく、そればかりか、喜ぶ要因の方が多いだろうという周囲の目、或いは不幸を忘れようとする圧力がエマを苦しめていたのだろう。
 小刻みに揺れる肩を緩く叩き、クリスは目を細くした。騙しているような罪悪感と自分の死を素直に悲しんでくれる嬉しさと切なさが、絡まり合った糸のように胸の中を転がり回る。
 エマを立ち直らせるためにこの世に残ったのだろうか。そう自問して短く息を吐く。
 答えは否だ。予想外の事態さえなければ間違いなく気に掛けていただろう事だが、心残りというほどではない。クリスティンが出張らずともいずれエマは立ち直ったであろうし、クリストファーであったとしても方向性こそ違え、適切な対処が取れたはずだ。
 現に、溜め込んでいたものを吐き出すように泣き続けるエマに安堵を覚えてはいるものの、身体的な変化が起こる様子はない。若干の落胆を覚えつつ、クリスはこっそりとため息を吐いた。
 それからどれくらいが経ったか。やがて引き攣るような忙しい呼吸が収まったのを確かめ、腕の力を緩めてエマを覗き見る。
 気づき、エマがそのままの姿勢で顔を上げた。
「クリス……」
 ややこしい話であるが、この場合はクリスティンを指すのだろう。
「クリスに叱られているようでしたわ」
「……まぁ、兄妹だからな」
「ありがとうございます」
 泣き濡れた顔は青白いままではあるものの、それまでには消え失せていた視線の強さが戻っている。内向的には違いないが、エマはもともと芯に強いものを持っている女性だ。けして依存心だけの弱い人間ではない。
 それでこそ親友と、クリスはにこりと微笑んだ。
「狭い部屋で寝ていると気が塞ぐ」
「ええ。そうですわね」
「前よりも痩せたようだが、何か食べられそうか?」
「それは、少し。けれど、あなたが折角帰っていらしたのですから、今日はカミラと腕を振るいますね」
「無理するな」
「何かしている方が気が楽なんです。疲れたら休みますから、ご心配なく」
 言い、エマはクリスの胸を押す。離れる為の合図に、クリスは屈めていた体を伸ばして彼女を見下ろした。ほどなくして立ち上がったエマは、気遣うような二対の目に見せびらかすように、くるりとその場で軽快に回った。
「ね、大丈夫です」
「そうだな」
「では、下に行きますね。カミラ、後で手伝って頂戴」
「はい」
 頷いたカミラの横を通り抜け、扉の前でエマは優雅に礼を取った。そのまま、軽快な足取りで階下へと降りていく。
 苦笑のままに見送り、クリスは肩を竦めて息を吐いた。わざと元気になったように振る舞っている、そういった演技半分の様子だが、それすら出来なかった十数分前に比べれば格段の進歩というべきだろう。後はクリスティンの思い出を自ら語るようになれば完璧だが、今の段階でそれを求めるのは性急に過ぎるというものだ。
 とりあえずは及第点、とクリスは肩を鳴らす。思っていたよりも緊張していたらしい。
「お見事です、旦那様」
「別段特別なことはしていない」
 謙遜でもなく当然のように呟けば、カミラは微笑み、次いで表情を改めた。そうして居住まいを正す。もてなさなければならない客の前でもあるまいに、膝を曲げ低く腰を落とし、深々と頭を下げた彼女を見て、クリスは面食らったように何度か瞬いた。
「旦那様にお仕え出来ることを誇りに思いますわ」
「何を急に?」
「普通であれば、まずはご自身の無事を喜んで欲しいと思うものです。自分が生きているということに価値を見出し、そこをもって立ち直らせようとするものです。ですが旦那様はそうなさらなかった。ご自身が辛い体験をなさったばかりであるにも関わらず、大変、立派でございました」
 この言葉にクリスは、内心で小さく苦笑した。ある意味客観的な立場とも言える身からすればそれは造作もないことで、つまりはカミラの感じたことは見当違いと言った方が早いのだ。だがさすがに、それを伝え訂正するような莫迦な真似はしない。
 複雑な感情をもてあましたまま、表面上は無表情にクリスは緩く頭振った。
「エマは妹との付き合いの方が長い。そう思ったまでだ」
「はい。差し出がましいことを申し上げました」
「構わない。それより、エマを手伝ってやってくれ」
「畏まりました」
 頷き、カミラはもう一度軽く頭を下げた。
「では、私は厨房へ戻ります」
「ああ」
「今夜のお食事はご期待なさって下さいませ」
「そうだな。だが、くれぐれも無理はするなとエマに伝えてくれ」
 承知、と言った表情で微笑み、カミラはそのまま一歩後退する。自然な礼儀作法が身についている彼女は、雇い主の目の前でいきなり背を向けたりはしない。
 退室しやすいようにと自身もまた距離を取ったクリスはふと、いつまでも離れない視線に気が付いて扉の方へ目を向けた。


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