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「どうした?」
 一歩下がったままの場所で、カミラがまだ立ちつくしている。
「何かまだ心配事でも?」
「いえ、……」
 迷うように躊躇うように、カミラは言葉を濁す。
「その、もう一つ……、差し出がましいとは承知の上でございますが……」
「なんだ?」
「……今夜、で思い出しましたが、その」
「?」
「今夜だけではなく、その、しばらくは奥様のお体を労って下さるようお願い致します」
「労る? もとより、病み上がりに無理な仕事をさせるつもりはないが」
「いえ、そうではなく。……安定期に入るまでは夜の方は、と医師が申しておりますので」
「……」
「旦那様に限り、無体な真似はなさらないと信じておりますが、奥様のお体はけして強くはございませんので、どうか宜しくお願い致します」
「……、……」
「……旦那様?」
 訝しげな声に、クリスははっと我に返る。慌てて焦点を合わせれば、カミラは眉根を寄せて彼を凝視していた。
「あ、いや、判っている。大丈夫だ」
 この場合、カミラの不審は正しい。クリスはまったくもって彼女の指摘することを考えていなかったのだ。勿論、人生経験豊かな年配の女性が危惧するものとは真逆の意味で。
 胡乱気な目から微妙に視線を外しつつ、クリスは引き攣ったような笑みを浮かべた。
「ここでそう言われるとは思わなかっただけだ。大丈夫だ。勿論、他へ行くような真似もしない」
「……然様でございますか。申し訳ございません。不躾なことを申し上げました」
「いや、当然の危惧だ。……それより、そろそろエマを手伝いに行ってやれ」
「はい」
 やや釈然としない様子はあるが、医師でもない使用人にそれ以上のことを言う権限はない。頷き、軽く礼を取って今度こそ身を翻す。
 ゆっくりと足音が遠ざかっていくのを確認したクリスは、へたり込むようにがっくりと膝を突いた。
(ま、まずかった……)
 最後の問答は完全に落第点だった。クリストファーであれば、おそらくは動揺などしなかっただろう。憮然として一言「判っている」、そうするべきだった。
(……っていうか、っていうかさ、そんな余裕なかったし!)
 頭を抱え込み、クリスは上半身を捩って身悶える。
(夜の生活!? って、それって、普通なら、私がエマを、……抱かなきゃいけなかったってことで)
 だが、女であることを除けたとしても、独身、具体的に言えば未経験だったクリスにその手管やらなにやらが判るはずもない。否、判っていたとしてもやれるわけがない。
 数日は体調不良を理由に添い寝程度で終わらせることも出来るが、それが何日も続けば違和感や何らかの疑いを持たれてしまうだろう。
(いやいやいや、それ、無理! 無理無理無理!)
 一通り、妄想という名のろくでもない想像が脳内を占拠する。
 果たして、筋骨逞しい男が顔も耳も紅くして部屋の中をのたうち回る、そんなどうにも奇妙で気持ちの悪い光景は数分間も繰り返されることとなった。目撃者がいなかったことは、双方の未来にとって幸せだったとするべきだろう。
(……落ち着け、私。今は違うんだから)
 ようやくにして現実へ浮上したクリスが、はっとしたように顔を上げる。
(そうよ、今はその必要はないんだから!)
 むしろ手を出すな、と厳命を受けたのだ。それを幸いと言わずして何と言おう。
 手を出す方法が判らない、精神的に同性愛に走る気など全くない、そんなクリスの現状は端から見れば好ましいものに映るはずだ。無体な事はしない、浮気もしない。――そう、出来うる限り家に帰り、優しい言葉をかけ、軽いスキンシップを取るだけで「堅実な愛妻家」という好印象まで勝ち取ることが出来るのだ。
 ほぼ三段論法に近い都合の良い結論を出し、クリスは心の中で快哉の拳を上げた。
(ありがとう、兄様! いやもう本当に助かった!)
 憔悴から一転、息を吹き返したように立ち上がったクリスは、掛け値なしの賛辞を兄へと送るのだった。


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