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3.


 静まり返った訓練所の一角、空に星を湛えた闇の中に、木で木を打ち据える音が断続的に響いている。均された地面を硬い靴が滑り、しなやかな筋肉を持つ腕が振り下ろされるや、散らされた木の葉が批難の声を上げた。
 数秒、荒い息を整えながら、クリスは流れ落ちる汗を拭う。
「随分精が出るね」
 どこからともなく響く声。次いで仄かな光が周囲を白く滲ませた。その怪奇現象に驚くでもなく、クリスは緩く頭振り光の収束する宙に視線を移す。
「相変わらず唐突だな」
「一応、家の中では現れないように気を遣ったんだけど」
「……まあ、それは助かるが」
 肩を竦め、クリスは手にしていた模擬剣を木に立てかける。一息つくようにその場に腰を下ろす彼を見て、ゲッシュは面白そうに目を瞬かせた。
「こんな夜まで熱心だね」
「まぁな。さすがに家の庭じゃ訓練できないし、かといって昼に他の人たちに混じってやる勇気はない」
「そう? 結構さまになってたけど」
「そりゃ、前から剣は習ってたからな」
「男の体だし、筋力あるし、能力あがるわけじゃないの?」
 尤もな意見に、クリスは苦笑を持って応じた。正直なところ、昼にアントニー相手に練習を行うまでは彼自身もそう思っていたのだ。
 結論から言えば、クリストファーの身体能力は確かに優れていた。現役の軍人であるアントニーに一歩も引けを取らない展開には持ち込めたと、自負を含めた高評価をつけることは可能だろう。だがそれは多分にアントニーが自滅してくれた結果とも言える。これまでのクリストファーの剣技との違いに感覚を狂わされた彼が対応に手間取っている間に、強引な力業で押し切ったというのが実際の所だ。
 例えばこれが、ガードナー相手であれば、手も足も出なかっただろう。
「まぁそれでも、素人に負けるような奴じゃないから、そこそこ通じる腕前だと自惚れてもいいとは思うんだけど」
「納得いってない感じだね」
「そりゃそうだ。まず、私――俺自身がこの体の感覚に慣れてないから下手をする。間合いとか、力の入れ方とかがギクシャクしててやり辛いんだ。これはこうやって訓練して慣れるしかないんだけどな」
 体の持つ能力に引きずられたという自覚があり、満足とはほど遠い。この体であればもっと戦える、それがはっきりと判るだけに悔しさも混じっている。
 だが気にすべき一番の問題は、本人の自己満足の充足に至る以前の「クリストファーとの違い」そのもの、というべきだろう。
「明らかに剣の使い方が違うから、これは病み上がりでどうのこうの、って通じるもんじゃない。ガードナー隊長とかは、昼の隊訓練に参加してもいいって言ってくれてるし、元部下の人たちもそれを望んでるみたいだけど、だからこそ、今の俺の戦い方を見せる訳にはいかないだろ?」
 練習相手に選んだアントニーには、くどいほど基礎の確認と繰り返し、尚かつ病み上がりであることを強調して伏線を張ってからの対峙だった。
 実際に、細かい日常の手順や仕草からも変化を指摘されている。幸いにしてもともと兄妹の思想に大きな隔たりはなかったため、そういった面で「性格が変わった」と取られることはないが、あまりクリスティンの知らない面々と関わることは好ましい状況ではない。なにより、過去の話を持ち出されると非常にまずいのだ。
 湿った風に明日の雨を思いながら、クリスは深々とため息を吐き出した。
「悩みは尽きないね」
「――悩みがなかったら、逆におかしいだろ?」
 違いない、とゲッシュが笑う。相変わらず、ぼんやりと光ったまま宙に浮いているという不思議な生命体だが、仕草や反応は人間となんら変わりがない。その為か、既にクリスは彼が何をしようとも驚きひとつ感じなくなっていた。
 用意しておいた水筒を呷り、温くなった水を喉に通す。訓練の音が絶えてみれば周囲は驚くほどに静寂に満ち、そのためにか、ふと落ちた沈黙が妙に重い。やましいことなどは何もないはずだが、ゲッシュが顔を見せる度に急かされているようで、クリスはどことなく居心地の悪さを覚えるのだ。
「……悪いが、進展はない」
「知ってるよ。簡単に解決するようなものじゃないことくらい判ってるから大丈夫」
「けど、このままというのは具合悪いんだろう? 私、――俺だって、このままはご免だが」
「僕たちの間で少し話題になってる。正直、君の魂を砕いてしまえっていう意見もある。こんな状態は異常だからって」
 そうだろうな、とクリスは思う。本来なら死んでいる者が他人の、しかも血縁の体を乗っ取りのうのうと生きている。望んだわけでも、それをけして楽しんでいるわけではないとしても、倫理に反していることには違いない。
 わずかに歪んだ口元に気づいたか、ゲッシュは窘めるように言葉を続けた。
「でも、僕はそうしたくない。君ひとりが完全消滅して、それで別に世界になんら影響がないとしても、君だって、世界に循環すべきひとりなんだからね」
 そう言って眼を細めるゲッシュは、彼らの間では穏健派なのだろう。明らかにひとつの生命として間違った存在など、始末してしまった方が早い。ゲッシュは明確には語らないが、「漂う存在」になるということがはっきりしていることを考えれば、過去に実際に完全消滅に至った例があるはずだ。
 そこまでを思い、クリスは小さく眉間にしわを寄せた。
「ごめん。迷惑をかける」
「気にしなくていいよ。何度も言うようだけど、君は悪意を持ってそうしてるわけじゃないし」
 ただ、絶対に諦めないでほしい。そう付け加え、――ゲッシュはふと、何かに気付いたように顔を上げた。
「誰か来る」
 ゲッシュの動きに合わせて、クリスもまた顔を木々の間へ向ける。
「ひとり、かな。こっちの方に向かってる」
「ここに?」
「そこまでは判らない」
「悪いが――」
「判ってる。じゃあまた今度」
 軽く手を上げ、次の瞬間にはゲッシュは姿を消していた。早業、というよりは切り替えなのだろう。人には見えないものへと変化するだけだ。そこには一瞬の時間差も遺残物もない。
 便利なものだと思いながら、クリスは外に向けて強く意識を向けた。
(確かに、誰かいるみたいだけど)
 むろん、訓練所は軍の関係者に解放された場所だ。誰がいつ利用しようと、周囲に影響を与えない限り咎められることはない。
 だが同じ目的のもので混み合っている日中であればともかく、今は出入りに便利な場所が幾らでも空いている時間帯だ。今クリスが居るような辺鄙とも言える端にやってくるからには、相応の理由があると考えた方が無難というものだろう。
 クリスと同じように、人目を忍んで訓練をする必要のある者か、訓練以外の疚しい理由でわざわざ足を向けたものか。


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