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 一瞬、素知らぬふりをして去るという選択肢が頭の中で点滅する。――だが、遅い。今更逃げたところで、良からぬ輩であった場合、捕まる確率の方が高いくらいに相手は近付いてきてしまっている。いずれにせよ関わり合いになる気はないが、後者である場合は少し困ったことになるな、とクリスは眉間に皺を寄せた。
 そうして息を潜め、相手の動向をさぐること十数秒。クリスはふと、あることに気付いてさらに首を傾げることとなった。
(真っ直ぐ、私の方に来てる?)
 夜の屋外である。クリスも持参のランプを木の枝に引っかけるなどして、多少ながらも光源は確保している状態だ。さすがにこの距離まで来て気付かぬわけがないという段になって、先ほど考えた理由の者が歩く軌道を変えないということはあるだろうか。
(もしかして、私に用がある?)
 ぎよっとして、クリスは唾を飲み込んだ。訓練所の個人的な使用の際には一応ではあるが、入り口の冊子に名前を記入することが義務づけられている。あまり守られていないということを知るのはもう少し先の話で、この時クリスは生真面目に本名そのままを書いていた。つまり、そういう意味ではクリストファー・レイが訓練所の中に居るということを知ることは容易い。
 だが、陽が落ちて久しい夜中に、誰がクリスを訪ねてくるというのか。
(兄様の知り合いがやってきただけなら……いや、それも拙い。いや、その方が拙いかも)
 クリスティンの知っている軍関係者は、アントニーひとりだ。クリストファーの知己でクリスティンの知らぬ者は、クリストファーとしての対応ができないという意味で、今もっとも避けなければならない相手と言えるだろう。
 そうして迷っている間にも足音は更に近づき、湿り気を帯びた土を踏み鳴らして不穏の密度を高めていく。
 どうする、と焦り、どうしていいのかと苦悩し、緊張の針が振り切れたクリスは、意を決して自ら声をかけることとした。
「……誰ですか」
 クリストファーであればもっと無愛想に、短く言い切る形で誰何したかもしれない。そう思いながらも、確信はない。迷っている暇はなく、クリスは、いささか緊張の滲む声で無難に問うしかなかった。
 近付く人影は、まだ朧だ。遠くの灯りでは、まだシルエットですらはっきりとは映してはくれない。加えて植えられた木が視界を遮っている。
 あまり好条件とは言えないが、それは相手にとってもそうだろうと、一歩後退りながらクリスは立てかけておいた剣に手を伸ばした。
「物騒なことだ」
 クリスの不穏な気配を察したか、近づいてきた人物が苦笑に近い声を上げる。
「別段害意などないがね。――クリストファー・レイ」
「!?」
 名を聞いたところでやはりと思い、誰だ、と焦燥を高め、クリスは体を強ばらせた。そういった変化は、相手にも充分に伝わっただろう。
 だがむしろそうと知りながら前面の人影は、可笑しそうな声で笑ったようだった。
「見ての通り、儂は丸腰だが、それでも警戒を解く気はないかね?」
(この声は――)
「過ぎた警戒は時に相手を見誤る。若いの、剣を下げなさい」
 相手の声からは、敵意は感じられない。発せられる雰囲気はごく自然な威圧を伴っているが、それは言い換えれば、にじみ出る品格とも言える。経験と年月の重みだけが熟成させることのできる沈重さは、どれだけ優秀なものであろうとけして容易に得ることのできない深さがある。
 人に命令をすることに慣れた年配者、つまりは相応の権力者であると判断し、クリスは即座に剣を収め、その場に膝をついた。
「これは――失礼を」
 深く頭垂れ、だが最低限の注意は向けたまま、目の前の人物を探る。
「私に何か御用でしょうか」
「ふむ。切り替えの早いところはよろしい」
 感心したような声音は、全てを見抜いているようでもある。つまりはクリスがどこの誰とも判らぬままに、しかし雰囲気で察し、立場を考えて自ら屈したことを褒めているのだろう。
 その反応に直接には応えず、クリスは続きを促すように顔を伏せたままわずかに首肯した。
「さて、このままでは話し難い。そこに入りなさい」
 男がそこ、と促したのは、訓練所の隅の方にある簡易の休憩所である。頑丈なだけが取り柄というべきか、机や椅子、荷物を入れる棚以外は何もない。広さはそれなりに確保されているが、これはこの場が怪我人や体調不良者を一時的に収容する役割を兼ねている為である。
 いずれにしても、やってきた男の格好が激しく浮くような小汚い場所だ。
 厄介なことになってきた、と思いつつ、クリスは表面上は大人しく男に従い椅子を引いた。
「さて、まずは名乗っておこう」
 今更という感はあるが、隠すつもりがないのはクリスにとってありがたい話である。言い方からすると、過去にクリストファーと懇意にしていたというわけではないのだろう。
 不躾と自覚しながらもクリスは、当然のように椅子に腰をかけた男をゆっくりと眺めた。半ば予想通りと言うべきか、年の頃は50代から60代、精神的に熟した厳しい顔つきである。仕立ての良い衣服越しにも判る弛んだところのない体は、元軍人であることを示すのか、自制力に富んだ健全な精神の顕われかは判らない。ただし、油断のならない人物であることだけははっきりと判る。
 国の重鎮、と範囲を窄めて該当する人物を検索したクリスは、ふと脳裏に浮かんだ、ある種誇大妄想にも近い可能性に眉根を寄せた。――思い当たる人物は居るが、接点もなければ面会を必要とされるような仕事上の関わりもない。
 だが見ようによっては重々しく、実際にはさして気の乗らない様子で告げられた名前は、クリスの考えを嗤いながら肯定するものだった。
「セス・ハウエル、と言えば判ってはもらえるかね?」
 目を丸くしたクリスを認めて、銀髪というよりも白に近い灰色の髪の下、濃い緑の目が細められる。そこに内在する意図は読み取れないが、面白がっていることだけは明白だ。

 ――そのうち法務長官まで来て凄い騒ぎだったんだからな。

 名前を聞いた瞬間に、クリスの脳裏にアントニーの言葉が弾けて消えた。
 セス・ハウエル。――国にあって法と秩序を統べる法務省、その頂点に立つは法務長官、その人である。わずかに持つ情報が正しければ56歳。長年国政に関わり、国の基盤を支えている重要人物である。国王を除いては、三長官として肩を並べる財務長官、軍務長官をおいて最も発言力を持つ秩序の要。どんな職にも事故や規律違反がつきまとう以上、クリスにとっても下手な目を付けられたくない相手と言える。
 そのような大人物が何故、とクリスは一気に乾いた喉に唾を飲み下した。
「恐れながら、――私には用件を計りかねます」
「ふむ、そうだろうな」
「ここしばらくは事故の後遺症で療養を取っておりましたが、何か落ち度でも……?」
 声が掠れたのは、過度の緊張によるものだ。レイ家は確かに裕福な家ではあったが、あくまでも順風満帆な商人という域を出ない中堅である。国を運命を左右するほどの権力者とはさして関わりを持つ身分でもない。ましてや現在のクリスは、商人の見習いとして重要な交渉の場に立っているわけではなく、――ご機嫌伺い、或いは心証的なものを左右する程度の駆け引きしか経験したことのない彼の頭は、文字通り真っ白になっていた。


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