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 唖然とするクリスを認め、ハウエルは可笑しそうに目尻の皺を深めた。 
 意図をはかりかねてしばし彼を見つめ、ようやくしてクリスははっと目を見開いた。
 なんということはない。クリスが目的を把握し得ぬままにハウエルが意図することを喋らされたというだけの話である。前振りと見せかけての問いに緊張したが故に、奥底にある真意を探ることを失念したクリスの完敗というわけだ。
(なんか、すごく負けた気がする)
 ほぼ瞬間的に脱力したクリスに向けて笑いながら、ハウエルが椅子から腰を上げる。その年の割には機敏な動作に、クリスは止める機会を逸したまま彼に倣って立ち上がった。問答のような会話に終始しただけに不完全燃焼の感もあるが、追い縋って続ける気力も理由もない。
 自ら率先して扉を開けたクリスの横を通り過ぎたハウエルは、そこでふと、思いついたように足を止めた。
「わしに危害を加えようとは思わなかったかね?」
「とんでもない。――たとえ思ったとしても、私ごときには完遂しかねます」
 言い、クリスはちらりとハウエルの背後に目を向けた。むろんその先にあるのは闇ばかりで視線の先に見えるような人影はいない。誰かがいるのは判っている。だが方向は当てずっぽうだ。
 だが、ハウエルには思うところがあったようだった。
「勘も良い。次代は人材に恵まれているようだ。君を事故で亡くさなかったことは幸いだったようだ」
「恐縮です」
 内心冷や汗を垂らしながらクリスは深々と頭を下げた。実際、ハウエルの感想は只の買いかぶりである。彼の隠れた護衛を察したのはクリスの実力ではなく完全なる反則技だったからだ。つまりは、クリスにしか見えないゲッシュがこっそりと教えてくれたというわけである。
「また会おう」
 背を向けたまま手を軽く上げ、ごく気楽な様子で去っていく男を見送り、クリスは深々とため息を吐き出した。緊張に強ばった体から力が抜けていく。
 扉の向こうでランプの灯が完全に遠ざかってから、更に数十秒。ようやくのように再び椅子に戻り、派手な音を立てて突っ伏したクリスは、疲労困憊の呈で呻き声を上げた。
「何がどうなってんだか……」
 正直、わけが判らない。突然の訪問の理由も質問の意図も、何もかもが謎だ。ハウエルほどの重鎮が動いているのなら、国に何らかの大きな問題が立ち上がっているのだろうということくらいは判る。だがそこに何故クリスが絡むのか。そこそこの実力者とは言え、クリス程度の立場の者は掃いて捨てるほど存在する。
 消去法で考えるなら、思い当たる節はひとつ。
(事故が関係してるのか……?)
 町中にして被害は大きかったとは言え、あの程度の事故は年に一度は発生している。馬車を引くのも制御するのも生物となれば、事故は如何にも防ぎがたい。原因を明確にし責任の所在と賠償を定める機関は確かに法務省ではあるが、その長がいちいち出張るほどのものはないはずだ。
(逆に言えば、出張るほどのものが事故にあったのなら……。いや、単なる事故じゃなかったなら?)
 それに巻き込まれたクリスの元へ、何か知らないかと探りを入れに来たと考えれば一応の理由はつく。だが、ハウエルの話の内容はそれに全く結びつかないものだった。
 頭を抱え、クリスは再び盛大にため息を吐く。
 判らない。――今のクリスには決定的に情報が足りていない。だがハウエルの謎掛けを解くには、それが絶対に必要だ。後手に回った気もするが、単純な人為的なミスだと思っていた事故の概要を洗い直すしかないのだろう。
 当事者故にある意味それが運と偶然のものであると信じて疑わなかったクリスは、己の単純な思考に呪いを吐いた。
「……とりあえず、帰るか」
 だが少なくとも、すぐに判るものでもない。
 今更訓練を続ける気力もなく、クリスは疲れた体を引きずるようにして小屋を去った。

 *

 そうして事故の詳細を調べること四日。
 レイ兄妹を巻き込んだ事故は、事件の臭いをふんだんに撒き散らしていることが判明した。主にはアントニーと父親を頼って手に入れた情報は、クリスの眉間に皺を寄せるに充分な代物だったと言って良い。
 まず、原因となった馬車の暴走そのものが人為的に引き起こされたものであると疑われている。城門をくぐったあたりでも既に僅かな蛇行を見せていた馬車は、クリスたちのいた街区に入る直前に更なる迷走を始めた。このあたりは目撃者が全く存在しないためはっきりしていない。馭者も倒れた馬車の下敷きになって亡くなっている。
 そして標的として狙われた馬車は、聞きかじっていた情報通り、法務省の公的任務に使用されるものだった。勿論それが使用されるのはさほど珍しいことではなく、むしろ発生する事件の調査に向かうことの多い法務省の官吏は、巡回兵に次いで町中でよく見かける存在である。だがハウエルとの二度の接触――一度目は昏睡状態だったためクリスの認識するところにはないが――が、それを確率の問題で済ますことに疑問を投じた。
 単なる遭遇者と見なされたか、通りがかった一般人やクリスのところには手は伸びていないものの、事故の調査が未だ念入りに行われているところに秘匿性を感じる。
 つまりは、暴走した馬車がなんらかの重要な事件の核たる存在だったと見るべきなのだろう。それも、法務長官その人が動く必要のある案件だ。
 大きなものに巻き込まれている感覚を覚え、クリスはまとめた内容に冷や汗を流した。冗談ではない、というのが本音である。できればいち被害者としてそっとしておいて欲しい。それどころではないのだ。


 ――だが絡んだ糸が解れる間もなく、クリスは否応なく深みにはまっていくことになる。


 更に後、邂逅より六日後の土曜。
「大変だ、――大変だぁ!」
 自主訓練中、建物内に響き渡った、――誰もが思わず手を止めるほどの切羽詰まった声に、クリスは嫌な予感を覚えつつ振り向いた。
「法務長官のハウエル様が襲われたらしい! 意識がないって話だ!」

 色を失っていく風景の中でクリスは確かに、歯車がぎこちなく回り始める音を聞いた。


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