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4.


 その凶報は瞬く間に国中に広がり、濃度を薄めること無く不安と困惑を撒布した。
 街行く人は顔見知りに会うたびに真偽のほども判らぬ情報を交わし合い、最後にハウエルが持ち直すことを祈るように口にする。政治に興味を示さない自堕落な国王を支え、そんな不名誉な状態を諸外国に必要以上にさらすこともなく、陰となり時には表の顔として国をその形に保ってきたと言っても過言ではない人物なのだ。ある意味、国王その人を失うより国に与える衝撃は大きかったと言えるだろう。
 そんな背景があるがゆえに、最高責任者を失った法務省はもとより、軍部、財務省の幹部も浮き足立ってしまっている。直接仕事に影響が出るというよりも、今後万が一があった場合の新たな長官の選出と、それに伴う方針の転換が気になるといったところだろう。
 クリスがひとり訪れる屋内の鍛錬施設でも、数人が端に固まって休憩がてらのうわさ話に興じていた。
「君は気にならないのかい?」
 若干息を乱しながら問いかけてきたのはガードナーである。勿論、連れ立って来たわけではない。
「そういう隊長は如何です?」
「僕? さてね。自分の仕事をするだけだ」
「私もそうです」
「……なかなかに慎重だね」
 にやりと笑みを浮かべるガードナーを横目に、クリスは短く顎を引いた。別段、隠している訳ではない。ただ、政治に対しての見解を口にすることにより、それがクリストファーの思想として定着するのを避けたかったからだ。致し方なかったこととは言え、ハウエルにつらつらと語ったことをクリスは若干後悔している。
 自分の意見は極力挟まないというのは存外に難しい、とクリスは眉間にしわを寄せた。
「しかしまぁ、唐突だったね」
 よほど話したい内容なのか、無言で筋力トレーニングに勤しむクリスを気にした様子も無く、ガードナーは話題を続けて口にする。
「君は? 事件の概要ぐらいは知ってるだろう?」
「勿論です」
 さすがに無視する訳にもいかず、クリスはガードナーに一瞥を向けた。
 セス・ハウエルの傷害事件。世間を騒がしているその内容は、実のところ至極単純なものである。とある過去の事件に関連した会談をしている最中に室内に何者かが侵入、護衛とハウエルを害して逃亡した。言ってみればそこに終る。
 問題は、第一に犯人が捕まっていないこと。第二に同じくその場に居合わせ、更に救援を呼んだのが財務長官であったこと。そしてある意味最も重要なのが第二の問題に関わることで、つまりは二大巨頭が密談を必要とするほどの内容とは一体どういうものだったのか、ということである。
「財務長官の容態は如何ですか」
「そちらは問題ないみたいだね。打ち身と捻挫は治るまでにしばらくかかるらしいが、もう起きて仕事に戻っているそうだ」
「そうですか。それは幸いです」
 財務長官もまた、国を支える大事な柱である。まだ若く、ハウエルほどの人脈と権勢はないが、地味ながら着々と改革を続けている人格者だ。むろん、クリス程度の下っ端が直接会うようなことはないが、伝え聞く噂をまとめると「厳しい面もあるが穏やかで誠実な人物」という印象が強い。
 額の汗を拭い、クリスは起き上がって深く息を吐いた。
「何か大きな事件でもあったのですか?」
 ガードナーの話に乗るつもりはなかったが、考えれば考えるほどにハウエルに会った夜のことが脳裏を占拠していく。こんな精神状態では怪我をする、とクリスは諦めたようにガードナーに向き直った。
「あった、みたいだね」
 我が意を得たりとばかりにガードナーが笑みを深める。
「まぁ、厳密に言えば新たに起きた、というわけではないんだけど」
「どういうことです?」
「五年前の事件が掘り起こされたってことかな。君も知ってるだろう。財務長官がそこに就任する前、法務長官と一緒に解決した国際規模のあの事件さ」
 ガードナーがさらりと口にしたのは、この国に住むものであれば誰もが知っているというほどの過去の大事件である。
 イエーツ国の西端に位置するサムエル地方、その領主が人身売買の元締めとしての摘発、それに関連した政治家たちの汚職。あまりにも人道にもとるその事件は、当時国王により秘密裏に処理されようとしていたという。それを半ば無視するようにして各国に詳細を広めたのが、ハウエルと現財務長官だった。愚鈍とされる国王ですらも蒼褪めさせるほどの内容と組織規模であり、一国のうちに済ませるべきではないと判断し、彼らは国の方針に真っ向から逆らったという。
 犯罪組織が国外にも深く根を張っていたと知られる今でこそ英断だったと持ち上げられているが、当時の突き上げは凄まじかったに違いない。国を導くはずの権力者が、その国民を切り売りしていたと言ってもけして誇張ではないからだ。公表することで国際的な国の評価は下がり、国力も落ちていく。誰もがそう思ったに違いなく、クリスもまた子供ながらに不安を感じていたのを覚えている。
 だが、その危機的状況は、件のふたりとその周囲の尽力により回避された。だからこそ今があると言っても過言ではないだろう。
「確かにあの事件なら、ふたりの長官が会議を持ってもおかしくはないと思いますが……、しかし、なぜ非公式なのでしょう」
 すでに隠された事件ではない。思い上司を伺えば、話題を振ったはずの彼はおどけた調子で肩を竦めて口角を上げた。
「興味、出てきた?」
「一般的な範囲であれば」
「今の話、実は非公開なんだよね」
 さらりとした口調に軽く頷きかけ、クリスは次の瞬間にはたと動きを止めた。目の前の男は、実はとんでもないことを口にしたのではないだろうか。
 穴の開くほど見つめれば、ガードナーは短く苦笑したようだった。
「……何故、その話を私に?」
「話があるからね」
「?」
「今日の夕方6時に、法務省の第三会議室に行きなさい。これは命令だよ」
「どういうことです?」
「僕からはこれ以上は言えない。ただ君は大きな事件に巻き込まれることになるとだけ言っておこう」
 捨て台詞のように言い、それ以上の問いを封じるようにガードナーは手のひらを向ける。狡いなと思い、しかしクリスはただ神妙に頷いた。
 世間話をするように近づき、その実言いたいところへ誘導した理由を思えば、感情のままに問い詰めるほど愚かなことはない。秘密秘密と言いながら、一番隠しておきたかったのはクリスに課せられたらしき任務のことなのだろう。
 何故自分に、という疑問は脇に置いてクリスは深々とため息を吐いた。
 ――よくもまぁ、厄介なことばかり押し寄せる。
 緩く頭振るその奥で思い浮かべるのはやはり、あの夜の謎めいたハウエルの訪問だ。クリストファーになりすましながら自分の問題を片付けていかなければならないというのに、状況はそれを許してくれそうにもない。そしてクリストファーという男の時間が現実で流れている以上、そこに関わる全て疎かにするわけにもいかないという重圧がクリスの上にのしかかっている。
 後悔と不安以上の疲れを感じながら、クリスは肩を落としたままその場を後にした。


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