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 イエーツ国の王都は、古い城塞都市を中心として東方に伸びた、やや歪な扇状に広がっている。同心円状でないのは、最も古い王城の北と西側がすぐ幅の広い河になっているからだ。
 新しい外郭は直径三から四キロメートルに広がる街をどうにかカバーしているが、大軍に攻められれば防ぎきれないのは明白だろう。主な防衛点は中郭と呼ばれる二郭より内側で、レイ家を含む「王都の住人」の住居と商店はその中に存在する。外郭と中郭を隔てる壁は厚く、上は常に哨戒兵が巡っており、大門と呼ばれる門は検問で常に混み合っているのが日常風景だ。
 裁判所を含む法務省の建物は、丁度軍部の占拠する一角と対極に位置している。大門をくぐり大通りを真っ直ぐに進めば正面に財務省、左に軍部、右に法務省という判りやすい区分けだ。その奥に王宮がそびえ立っているが、よほどの身分がなければそこには足を向けることも叶わない。一般国民はと言えば、財務省管理下の役所の場所さえ知っていれば事足りるだろう。基本的にそこが全ての窓口であり、言ってみれば細分化された組織のどこで何が処理されているかなどは関係者以外は詳しく知る必要もないのだ。
 故にクリスが法務省の敷地に踏み込むのはこれが初めてであり、おそらくはクリストファーであったとしても同様だったに違いない。
 定刻三〇分前、夕闇に溶け込んだ建物を見上げながらクリスは大きく息を吸い込んだ。次いで音になるほど勢いよく吐き、もう一度気合いとともに肺を満たす。
(……女は度胸、だ!)
 そして諦めにも似た覚悟とともに、クリスは法務省の奥へと足を進めた。役所が既に閉められているためか、すれ違う者のほとんどは法務省の制服に身を包んでいる。黒を基調とした軍服と対比させたような淡い色合いの服は、実を言えばクリスティンの憧れだった。クリストファーが家業を継いでいたのなら、子供の頃の夢のままに法務省の門を叩いていただろう。
 幼少時から体格のよかったクリスティンは、剣の腕の上達のままに、体を張って何かを守るという仕事に憧れるようになった。だが何か事件があった場合、現場の安全確保を担当し、その最中に捕らえた犯罪者を拘留するのは軍で、現在のところ女性の入隊は許可されていない。そこで目を付けたのが法務省の捜査官だ。
 捜査官とは言うが、実際には調査と捜査両方を行う広範囲の知識、技能が必要となる職業である。法務省検察局に所属し、彼らの調べた内容や探し出した物、捜しあてたものが法務省裁判局へ送られて裁判、刑の執行となる。当然危険な場に赴くこともあり、サポート役の事務を含め、護身術以上の戦闘技術を持っていることが前提だが、こちらは女性も受け入れており、絶対数は少ないものの活躍を耳にする機会も多い。故に充分な教育を受けることのできる富裕層で、且つ独立心の強い女性の間では憧れの職業となっているのだ。
 結果として縁遠い場所となってはしまったが、まさかこのような形で入ることになるとは、と思えば皮肉に苦笑が漏れ出でる。
 そんなクリスを若干不審な目を向ける男に会議室の場所を尋ねれば、案の定と言うべきか、ひどく奥まった方面を示された。この時間に部外者が何の用かと彼が尋ねなかったのは賢明というものだろう。或いはそれが暗黙の了解となっているのか、――いずれにせよ、楽観的な思考に至りそうにはない。
 進むことしばし、重厚というよりは古いだけの、極めて無骨な扉を目の前にして、クリスは一度ためらうようにその場に立ち止まった。表面のささくれた枠に打ち付けられたプレートには第三会議室の文字が刻まれている。間違いない。そして隙間からわずかに漏れる光が、客人を待ち受けるように周囲を照らす。
 汗の滲んだ手を握り、クリスは一度喉を鳴らした。そうして軽く扉を叩く。
「どうぞ」
 鈍く響いた音が消え去る前に、くぐもった声が入室を促した。それが誰何ではないことに驚き、だが考えの定まらぬままにクリスは慎重にノブを回す。その軽い感触と予想に反した滑らかな反応もまた、彼の動揺に拍車をかけた。
 そうして、突如現れた瀟洒な室内に、驚いたばかりの脳が閾値を振り切って思考回路を白く染め上げる。
「……」
 一瞬、自分の位置を見失ったように立ちつくし、次いでクリスは乱暴に頭を掻き毟った。何の冗談だと罵りの言葉が喉にせり上がる。
 存在を知らなければ行き着くことのない法務省の最奥、隠されたように目立たない扉、それを裏切る内装と選び抜かれた調度品の室内。勿論、ただの会議室ではあり得ない。ここには間違いなく、否、クリスの想像を超えた超弩級の厄介事が仕組まれている。それも、一度踏み込めば逃れようがないといった代物だ。
 帰ろうか、と九割方本気で思い、逃げろと脳裏に警鐘が鳴り響く。そしてそんな本能に従うように、クリスは迷いなく足に力を込めた。
 だが、
「座らないのか?」
 見透かしたように割り込んだ声に、ぎよっとして目を見開く。そういえば、中から応じる声があった。そんな当たり前のことを忘れるとは。
 動揺のあまり失念していた自分を罵り、クリスは慌てて声の方を向いた。
「呼び出したのはあなたか?」
「いや、呼び出された方だ」
 手を横に振り、先客はわずかに顔の力を緩めたようだった。繊細な造りの、しかし美しいというよりは精悍な、凛々しく鋭い顔つきが、そうすることにより印象を和らげる。えらく華のある男だなと思い、これでは秘密の用件とやらに差し支えるのではとクリスは眉根を寄せた。
(でも、どこかで見たような)
 思い出そうと首をかしげるクリスを見て、彼の思考をおおかた把握したのだろう。男はくっきりとした二重まぶたの下で、透明度の高い黄褐色を可笑しそうに瞬かせた。
「私はレスター・エルウッドだ。よろしく」
「……クリストファー・レイだ」
 一拍遅れたのは、そこに記憶を刺激するものがあったからだ。名からはじき出した人物と合致させるべく、クリスはいっそ不躾なほどにレスターを観察する。対する目も、探る色を隠そうともしない。お互い様というものだろう。
 レスター・エルウッド。少し癖のある赤茶の髪を短髪とは言い切れない中途半端な長さで揺らす男の噂は、実に多くそこかしこで囁かれている。年はクリストファーと近い26才、同期入隊の内でも一番の出世頭だ。現在彼の所属では管理職が飽和状態であるため補佐に留まっているが、実力からすれば既に中隊長に就任していてもおかしくはない男である。精鋭揃いの騎兵師団の中にあって、若手の中では群を抜いて強い。
 この年にして四位貴人の位を得ている上に金持ち、美丈夫とくれば、当然女たちは黙っておらず、その点においてはクリスティンとしての情報も豊富である。簡単に言えば、来る者拒まず去る者追わず、意外に素っ気ないところがたまらないと評判の――既婚者だ。
 真正面から目にするのは初めてながら、先入観という名の人物像は当然、良いものにはなりえない。出世やその他のステータスについて羨む気も妬む気もないクリスだが、潔癖さからくる嫌悪感だけは如何ともしがたかった。自分の噂や評判を知りながら、改めようともしない図太さに苛立ちが涌き起こる。
「……おや、嫌われたか」
 クリスの顔に浮かんだ感情を正確に読み取り、レスターはさも残念であるように肩を竦めた。飄々とした態度だが、その奥にはまだ値踏みする様子が見え隠れしている。
 得体の知れない男だと思いつつ、クリスは率直なところを口にした。
「俺自身に思うところはない。だが妹から、あなたの噂を聞いた。まぁ、そういうことだ」


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