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 呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声音にクリスは低くうなり声を上げた。モニカのひとことは、「友人の兄」程度の者に対する言葉ではない。つまりふたりは、クリスティンの知らないところで某か親密な付き合いがあったということになる。
(ど、どーいうことよ!?)
 レスターは別段、クリストファーの女性関係を揶揄しているわけではない。からかいの域を出ないもので、本来なら軽くやり過ごせばそれで済んだはずの事である。だが、クリスは疎外感と好奇心から、それ以上の詳しい事実を求めてしまった。
 驚きと焦りと悔しさがない交ぜになった感情をもって、クリスは深く記憶を探ることに集中する。そうすることでごく稀に、クリストファーの記憶を脳から引きずり出すことが出来ることもあるのだ。むろん大概は単に判らないという空振りの結果に終わるだけだが、それを通り越してしっぺ返しを食らうこともあり、そのときは――
「クリス!?」
 強烈な脱力感を覚え、クリスはたまらずに体を折った。支えている糸の切れたような突然の制御不能。何もせずとも不意に襲い来る時もあるが、今はそうではない。要は、クリストファーからの拒絶の一種なのだろう。
「大丈夫か!? どうしたんだ、急に」
「いや、問題ない」
 罪悪感と若干の後悔を覚えながら、クリスは額に手を当てた。抵抗不可能ではあるが、持続性はないに等しい。原因となる行為を止めればすぐに落ち着く程度の発作だ。
 気を鎮めるように、クリスは大きく息を吐いた。
「大丈夫だ。事故のあと、時々こういうことが起こる」
「医者には診て貰ったのか?」
「とうに。だが、原因は判らないらしい。事故の後遺症だろうが、まぁ、日常生活に支障を来すほどじゃない」
「もしかして、私が事故のことを思い出させてしまったからか?」
 確かに突然意識を失うというヒステリーの一種もあるが、クリスの場合ははっきりと違うと断言できる。ついでに言えば、クリスだけが知っている原因を説明できないことも確かだ。
 レスターに困ったような笑みを向け、クリスは大きく伸びをした。
「事故は悲しいものだったが、辛くて目を背けてるわけじゃない。今のは、単なるタイミングの問題だ」
「それなら良いが……」
「問題ない。それより、折角買ったものを食べてしまわないか?」
 強引な話題転換をもって、それ以上追求されたくはないと拒絶を示す。
 怪訝な様子はそのままに何度か瞬き、結局レスターはクリスに合わせることにしたようだった。無言で頷き、手にしていたパンを口に運ぶ。昼食と呼ぶには軽すぎるそれは、やはりクリスを誘う口実だったのだろう。
 クリスもまた正面に向き直り、紙の包みを開ける。だが、よく焼けた肉の香ばしい匂いが漂う前に、正面を向いたままレスターが小さく呟いた。
「無理するな」
「してない」
「では、これから無茶はするな。少なくとも、生きていることを喜んでくれる相手がいるのだからな」
「……そうだな」
 一拍遅れて、クリスはぎこちなく頷いた。レスターには何気ない、一般論に近い戒めだったのだろう。だがクリスはそれだけで心拍を上げた。
 ――判っている。
 与えられる全てのものはクリスティンへのものではない。そう、判っている。
 紙包みを握りしめ、クリスはただ俯いて、心の中でそう繰り返した。

 *

「結論から言うと、駄目だった」
 若干憮然とした様子でダグラスはため息を吐いた。彼以上に不機嫌なのはヴェラで、疲れたようにも見える姿にそれみたことかとアランが声に出さずに嗤っている。クリスはもとよりさほど期待をしておらず、レスターに至っては予想通りといった表情だ。
 好き勝手な感想を抱く面子に、机の上で指が注目を強いる。
「ただ、ひとつ情報を貰った」
「その前に、なんで駄目だったのか教えては貰えないのかい?」
「言ったところで意味はないと思うけど? まぁ、強いて言うなら、君がさっきレスターに抗議したのと同じ理由だよ。全てを語って貰う代わりに見逃して自由を与えた人に対して、古傷を抉ることは出来ないし、今更何の情報もないのははっきりしてるって断られたんだ」
「ダーラ・リーヴィスの行方は?」
「その人の立場上、知っていても言うはずがないって」
 どういった人物だったのか、についてはおおよその見当は付く。おそらくは例の屋敷で働いていた人物であり、組織とは直接は関係はなく、おおまかに働いている場所の事情は知りつつも賢明にも深入りせずにいた、といった具合か。大規模な粛正の時に関係者と間違われるのを危惧し、また組織から無差別な口封じに遭うことを恐れ、軍に保護を求めたのだろう。
 法務省の者に身柄を確保された場合、尋問を受けて洗いざらいを公式文書として残される。つまりは組織の人間からみれば「何かを喋ったに違いない裏切り者」として捉えられる危険が存在するのだ。軍部でもやはり尋問はされるが、場合によっては情報提供という形でその場で解放されることもある。
 実はこのあたりが軍部と法務省の仲を悪くしている要因のひとつでもあるが、どちらが正しいかは、時と場合と結果によるとしか言いようがない。
「見込み違いだった、というわけだ」
 アランの一言に、ダグラスは肩を竦めてやり過ごす。
「で、貰った情報ってのは?」
「娼館を訪ねろって」
「はぁ?」
「人身売買の被害者の半分以上は綺麗な女性だからね。誘拐されて売られたって判明した人は保護されたけど、そういう人たちを覚えてる人がいるだろうからその人に聞けって」
「手当たり次第にもほどがあるって言わないかい?」
「一応、紹介先は聞いてきた」
 言い、ダグラスは薄い封筒を揺らす。
「正直、これは僕もないな、と思ってる。けど、一応上司の紹介だから行くだけ行ってみないと立場上まずいんだ」
「行くだけ無駄って気もするねぇ」
「だから、君に行けとは言わない。僕とクリスでとりあえずそこに行ってみる、その間に他の三人は屋敷の方に先行してるってのはどう?」
 無難な線だと思い、一度は頷き、――クリスははた、と動きを止めた。ダグラスの言葉を反芻し、次の瞬間に椅子を蹴り倒す。
「ちょっと待て! なんでわた……いや、俺なんだ!?」
「適任だから」
「適任って、だから、何で!?」
 クリスティンの地が出ていることにも気づかず、クリスは立ち上がったままダグラスを睨みつける。
「娼館なら、俺よりもレスターの方がいいだろうが!」


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