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「あのね、僕らは客としていくわけじゃないんだよ。レスターの方が確かにあしらいは慣れてると思うけど、別の意味で注目を浴びてしまうじゃないか」
「だったら、他のふたりは……」
「ヴェラは女性だから論外。余計に何事かと勘ぐられる。ふたりで行動するには、アランより君の方が誤魔化しが効く。同じ軍部だからね。ほら、いろんな意味で君が一番無難なんだよ」
「……」
 自分は中身は女だなどと――言ったが最後、というものだろう。
 反論の言葉もなくクリスは頭を掻き毟った。さすがにダグラスにひとりで行けとは言えない。特捜隊の名目で動く以上、何かあったときにチーム全体の責任となるからだ。ダグラスが下手を踏むとは思えないが、単独行動に信がおけるほどよく知った仲というわけでもない。
 なんでこんなことに、と頭の中でクリスは盛大に罵った。そも、男になりきれるわけもないクリスには、男が娼館へ行ったときの普通の反応というものすら想像ができない。興味なさげに無表情に、という方向に徹することが出来れば良いが、何が起きても動揺しないなどと言い切れる自信はなかった。
(目立つような、変なことしなきゃいいけど……)
 その他大勢、という目立たない立場に立ちたいという彼の願いから、現実は真逆の方向に乖離していく。
 十数秒の、奇妙な緊迫感を持った沈黙。だがもちろんのこと、代わりを申し出るような奇特な者は存在せず、結果、クリスは机に手をついてがっくりと項垂れた。
「恨むぞ」
「どうかな。役得かもしれないよ。さ、決まったならさっさと行ってみようか」
「今から?」
 準備することなどあるわけもないのだが、すぐにと言われると焦りが脳を占拠する。相手の都合は、という言葉はレスターの苦笑を持って遮られた。
「夜に行ってどうする」
「あ」
「……健闘を祈る」
 最後は堪えるような笑みだ。気恥ずかしさと悔しさに顔を紅くし、クリスはお返しとばかりにレスターの向こうずねを蹴った。咄嗟に足を引いたのだろう。大した衝撃もなかったくせに痛い痛いと嘯く声が憎らしい。
 微かな笑声に見回せば、アランもまた隠そうともせずに肩を震わせていた。ヴェラが苦虫を噛みつぶしたように、どこか複雑な表情を浮かべているのが救いだろうか。
 これ以上は墓穴を掘る、とようやく気づいたクリスは、ダグラスを促して逃げるように部屋を後にした。暗い廊下に出て、扉の閉まる音にため息をつく。ひといきついてしまえば、やってしまった、という思いが強い。事故前のクリストファーと比較できるほどの知り合いが居ないのだけが幸いと、自分で慰めるより他はない。
 壁に手をついてつかれた様子を見せるクリスに、ダグラスが若干申し訳なさそうな声をかけた。
「ごめん。奥さんにばれたときにはすぐフォローに行くから」
「いや、それは、まぁ、いい」
「良くないよ。妊娠中は不安定になりやすいって言うじゃないか」
「帰ったら俺が言う。俺の妻なら話せば理解してくれる」
「それ、惚気?」
「単なる事実だ」
「あ、そう……」
 天然、と呟く声には無視を決め込み、クリスは早足で通路を抜けた。
 さすがにまだ陽は高い。窓から差し込む白に目を細め、財務省の建物を出れば熱気が風と共にまとわりつく。昼時を過ぎたためか並んでいた屋台は姿を消し、代わりに役所の人間が忙しく走り回っていた。
「とりあえず、乗合馬車だね。近くまでならこの時間帯でもあるはずだし」
 率先して表通りに出たはいいが、むろん主導権はクリスにはない。ダグラスに導かれるままにクリスは後をついて歩いた。
「店は判っているのか?」
「僕は行ったことがないからなんとも。ただ、店の入り口に特徴があるから判るって言ってた」
「誰が?」
「僕の上司」
 具体的には、話す気がないらしい。同じ軍部に属しながらも諜報関係の組織についてはほとんど何も知らないことに気づき、クリスは乱暴に頭を掻いた。ヴェラに鋭く叱責を浴びても可笑しくないほど抜けている。会議室の中での様子から察するに、クリス以外は件の上司とやらを知っているのだろう。
 ため息を吐いたクリスの前を、ゆっくりと馬車が通り過ぎる。
「運が良いな。あれに乗ろう」
 小走りに駆け寄り、ダグラスが御者に行き先を告げる。本来なら定められた場所で待つ必要があるのだが、もとからの行き先と交渉次第でなんとでもなるものだ。娼館の並ぶ河岸の歓楽街は王都の西方面、丁度馬車はそちらを向いて進んでいる。ダグラスの口の巧さなら、拒絶されるということはないだろう。
 案の定、少し走った先で馬車は止まり、ふたりは無事に客として乗り込むことに成功した。先客は三人居たが、慣れているのか咎める様子はない。
「西の商業区で降りるからね」
 公的に認められてるとは言え歓楽街周辺の治安は良いとは言い難く、古くからある一級の住宅街は勿論、一般の店が建ち並ぶ一帯からも隔離された場所にある。乗合馬車もその周辺に近寄ることはない。最寄りが西商業区。文字通り店や作業場が並ぶ区域だ。職人たちが多く居を構えているため、役所の者から旅人まで、様々な人間が出入りする。
 規則正しい蹄の音に耳を傾けつつ、クリスはダグラスに目を向けた。
「屋敷へは、夜に出るのか?」
「さすがに一旦帰っての準備が必要だから、そうなるね。でも急ぐ必要はないから、なんなら明日の朝にしてもいいけど」
「いや、単なる確認だ。向こうまでの足は? 必要なら馬を借りてくるが」
「そうだね。じゃあ帰りに寄ろう」
 頷き、クリスは今後の事に思いを馳せた。
 当座の目標地点である屋敷は、王都から南西にあるサムエル地方の端にある。国土の広さを思えば遠いという部類には入らないものの、徒歩では一般人であれば十日ほどかかる距離だ。馬を使っても二、三日は要するだろう。調査に使う時間を含めれば最短で往復一週間前後。任務の内容を思えば、延びる可能性の方を見込んでおかねばならない。
 いずれにしても、しばらくは仕事に専念するしかない状況である。
(こんなんじゃ、駄目なんだけどなぁ)
 クリスティンとしての望みを探る時間がどんどんと減っていく。半年と定めた期限が如何にも短いように感じられた。
 
 *

 商業区を過ぎて歓楽街に足を踏み入れればそこは別世界――というわけではない。町並み自体は若干乱雑さが目立つ程度で、知らぬ者が通ればそうと気づくのは半分といったところだろう。街区のはじめには主に夜間経営の飲食店が並び、奥へ行くほど怪しげな店が増える。それに混じり増えていくのが宿屋兼娼館で、汗を掻くほどに暑くまだ明るい時間帯に歩く者は疎らだった。
 五年以上前はともかくとして、現在この界隈で働く者は自由意志であるとされている。勿論、女の方からしてみればそれはあくまで建前で、それぞれ働かざるを得ない事情を抱えているというのが大半だ。


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