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「まぁそれでも、無休無給の強制労働の店が潰されてからは、全然ましになった方ですわ」
 40そこそこの、まだ十分に艶のある宿の亭主はそう言って明るい表情を見せた。
 件の娼館はおおよそ中堅どころといった構えの、確かに一目見てそれと判る店だった。建物自体は古くどことなく頽廃的な雰囲気も漂っているが、全体的には小綺麗に整えられている。清掃に走り回っている子供の顔に陰がないのは、まともな商売をしているという証拠だろう。
 案内された一室はごく普通の応接室といった印象で、その点においてクリスを大いに安堵させた。
「それまでも酷かったけど。そうね、今から思えば、サムエルの領主が変わってから余計に酷くなっていたのだと思います」
「地方領主は領内でのある程度の自治が認められているからね。やりたい放題だったんだろう。ここに売られてくる人もいたのかい?」
「いえ、彼らが専門で構える店がありましたの。……よく、明け方に運び出されると噂されていましたわ」
「それは……」
 動かなくなった人間が、ということだろう。借金の返済のためにほぼ無給で働く者も居るが、一般の店では最低限の衣食住と身の安全は保証されている。それを思えば、組織に捕らわれたが最後、ほぼ人間扱いされていなかったということが判るというものだ。女ばかりでなく、労働力として売られていった男たちの環境も推して知るべしといったところか。
 非道な、と思いクリスは膝の上で指に力を込める。横に座っているダグラスも、さすがに不快感を滲ませていた。
「それで? 貴方が話を聞かせてくれるのだろうか?」
 亭主がしていたのは茶請けを持ってきた際の世間話、程度のものである。この界隈に住む者なら誰でも知っているようなことで、ダグラスの上司が敢えて聞くことを勧めるほどの内容でもない。
 クリスの言葉に、女は苦笑して首を横に振った。
「もうすぐ来ると思いますわ。そう、約束しておりますので」
「約束?」
「ええ。この紹介状を書かれた方と。――ああ、来たようですわ」
 言われるまでもなく、クリスは入り口の方に顔を向けた。規則正しい足音が近づいてきている。
 数秒後、ぴたりと止まる足音。一拍の間を置いて扉が控えめに音を立てた。
「お呼びですか。モイラです」
「入ってらっしゃい」
 了承に、ためらいもなく扉が開かれる。
 姿を現したのは、豊満な肢体の美女だった。緩やかに波打つ髪が張りのある腰で揺れる。
 歳は30代半ばといったところだろうか。若い娘の華やかさは抜け、しかしそれ以上の艶やかさがしっとりと重みを帯びている。歩き方、仕草はどこまでも色を帯び、きわどい衣服がそれに拍車をかけている様子だ。単純な男の脳など、仕掛ける必要もなく一瞬にして占拠してしまうだろう。
 気怠そうでどこか悩ましげ、しかし目の奥にある鋭い光が侮ることを許さない強さを持ってふたりを射貫いた。
「こちらは?」
「貴方へのお客よ。契約の方のね」
「――左様ですか」
 どこか冷たい笑みを浮かべ、女はクリスとダグラスを値踏みするように眺めた。
「場所を変えても?」
「貴方の好きになさいな」
「では、私の室へ」
 とりあえず、クリスたちに決定権はない。宿の亭主に見送られ、モイラと名乗った女の後を着いて狭い廊下を歩く。全体的に静かなのは昼日中であるためか、防音効果が高いためかは定かではない。
 クリスティンにとっては初めての場所だが、兄はどうだったのだろうか、ととりとめもなく考えているうちに目的の室に到着したようだった。扉を開けて手前にローテーブルとソファ、仕切りの代わりに垂れ下がる布の向こうには、おそらくベッドが主役のように控えているだろう。むろん、今日はそちらの用事はない。
「さて」
 憚ることなくソファに腰を下ろし、モイラは深々とため息を吐いた。
「それで、何の用だい?」
 口調ががらりと変わる。妖艶な美女から蓮っ葉な場末の女へ早変わりだ。おそらくはこちらが本性なのだろう。表情と態度が変わればこうも印象が違えるのかと、クリスは半ば感心しながら彼女を眺めていた。
 ダグラスは、肩を竦めてモイラの正面の椅子を引く。
「単刀直入に聞く。屋敷の情報が欲しい」
「ふぅん」
 気のなさそうな女の声。こういった反応は予想の範囲内だ。切っ掛けはともかく、今は自分の意志でここにいる、そんな女相手にすんなり話が通るとは思えない。ダグラスの上司の紹介状があるとは言え、本人が来ているわけではないのだ。この女が何者なのか、何をもくろんで紹介されたのか判らない以上、下に見られても致し方ないと言える。
 どうしたものか、と顎に手を当て、ふとクリスは女の背後に現れたものに気がついた。
(ちょ……)
 目を見開くクリス。そんな彼に不審な目を向けつつ、女は無視するように口を開いた。
「それで? 情報とやらを与えてアタシにどんな利益があるってんだい?」
「情報次第だよ」
「そうかい、じゃあお引き取り願おうかね。アタシは別に、あんたらに話す義理はないんだ」
「かつて、軍に助けてもらった恩などは忘れたと?」
「あんたに助けられたわけじゃないさ」
 女に話す意志がないわけではない。ただ、その境界を定めようと試されている、そんな印象にダグラスは若干攻めあぐねている。無理もない。紹介状さえあれば話は通るものだとクリスも考えていたのだ。
(ダグラスの上司ってのは、ちょっと意地が悪いみたいだな)
 ガードナーと同類かと思い、クリスは内心で深々とため息を吐いた。
(さて、どうしよう。こういう手合いは出鼻を挫くのが一番だと思うけど……)
 わずかな逡巡の後、クリスは話が途切れるのを待って低い声で告げた。
「少々、往生際が悪いのではないか? ――ダーラ・リーヴィス?」
「!」
「!?」
 何故、と引く女に身を乗り出すダグラス。クリスは努めて装った無表情のまま女を真正面から見つめた。
「軍と取引したはずだろう。全ての情報を提供する代わりに見逃して貰うことを」
「どうしてそれを……」
「さてな」
 平静を装ってはいるが、実のところクリスの心拍はこれ以上はないというくらいに上がっている。ひとつの事実から導き出した根拠のない浅い推測で物を言っているのだ。喋りすぎればボロが出る、どころの話では済まないだろう。


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