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 背中に冷や汗を流しながら、クリスは女の向こうに見える人物に向かって目配せをした。気づき、その人、すなわちゲッシュは健闘を祈るとばかりに片目を瞑り姿を消す。クリスにしか見えていないと判っていても、彼の存在はやはり心臓に悪い。
 それを見届けて、クリスは再び女へと向き直った。
「自ら約束を違えるというのなら、反対はしないが」
「……どこまで知ってるってのさ」
「教える義理はないな」
「――っ!」
 屈辱に、女の頬が染まる。挑発している身としては何ともありがたい反応だ。せいぜい、彼女には自分から喋って貰わなければならない。
 その間に、ダグラスは気を取り直したようだった。何故女の本名を知っていたのかという疑問を置いて、クリスの狙うところに乗ると決めたらしい。短く息を吐いて足を組み直すと、彼は皮肉っぽい笑みを浮かべて苦言を口にした。
「『あの人』には参ったな。まさかクリスに切り札を渡しておくなんて」
「すまん」
 あの人、とはダグラスの上司のことだろう。話の流れから察するに、ダーラ・リーヴィスと直接取引をして見逃したのた張本人といったところか。
「じゃあ、この人がここに行き着いた経過ってのも聞いてるのかい?」
「いや、それは知らん」
「……だ、そうだよ。どういうことか、教えてもらえないかな。ダーラ・リーヴィスさん」
 穏やかな口調とは裏腹に、ダグラスの目は笑っていない。それを見て、女は観念したようだった。否、本名という絶対的な駒を押さえられていては逆らいようがないという諦観だろう。何をどうはぐらかしたところで、それを言いふらすと脅されれば意味のないことなのだ。
 一度頭振り、指輪を嵌めた手を忙しなく組み替える。そうして彼女は、睨むように真正面からふたりを見据えた。
「単純な話さ。あの屋敷に法務省の手が入る前に逃げ出した。正直、たいした情報なんて持ってなかったし、アタシも被害者のうちだから大した罪には問われないって判ってたけどさ、それでも捕まって人目に晒されるのはごめんだったんだよ」
 苦い笑みを刷き、モイラは手のひらに爪を立てた。
「組織の方だってそれは承知だっただろうし、そういう意味では血眼になって探されるほどの危険はなかったんだけどね。残念ながら、当時のアタシには『商品価値』があったのさ。国外の、脂ぎった親父どもが欲しがる程度のはね」
「つまり、そこへ連れて行かれるのを避けるために?」
「そ。国外の奴らに保護を求める野郎どもが手土産にしたがってたのさ。冗談じゃない。だからアタシは自分で自分を売ったのさ。駄目もとでね。で、どうせならできるだけ位の高そうな奴にしようと思って近づいたのが、あいつだったってわけさ」
「それは……運が良いというか、悪いというか」
「結果的には逃してもらえたんだから悪くはないさ。まぁ、うまく逃げられた先で似たような商売やってんじゃ、どうしようもないけどね」
 言い、乾いた笑みを貼り付ける。だがクリスはそれを見て直感的に違うな、と感じた。なんとなくではあるが、彼女からは誤魔化しの匂いがする。
「モイラさん」
 そうして敢えて今の名で呼べば、女は警戒したような目を向けた。
「それは違うだろう。他に働く手だてを知らず同じ商売に身を落とす者も確かにいるとは思うが、あなたからはそんな感じがしない。どちらかといえば計算尽くで敢えてここに居る、そんな感じがするが違うか?」
 指摘に、他ふたりの目が丸くなった。何故、と問われれば女の勘、もしくは同姓からみた印象としか言いようがない。気だるい印象の奥にある理知的な光、もっとくだけて言うなら、女が同性に対し格好いいと感じるキレの良さ、そういうものをモイラからは感じるのだ。
 わずかな間を置いて、紅唇が呆れたように曲げられた。
「馬鹿言っちゃいけないよ。アタシはこれ以外に能がないってだけさ」
「そんな女に、軍相手に単独で交渉を持ちかけるなんて度胸はない」
「っ!」
「大した情報など持っていないのなら、長きに渡って徹底的に身を隠す必要性はないだろう。そのあたりが矛盾してると言うんだ」
「静かに暮らしてたとしても、奴らに見つかっちゃ何吹聴されるか判らないだろ? だから隠れてるだけさ」
「既に軍に身元はバレているんだ。下手な接触はされないだろう」
 過去を材料に脅しをかけ、何らかを搾取しようとする場合、脅迫される側がそれを徹底的に隠している必要がある。だが、軍の了承のもと解放された形になっているモイラにそれは通用しない。古傷を晒されたくないという心情的に弱みになるとは言え、組織側の人間が国レベルで追われる立場である以上、接触する方のデメリットの方が大きくなるのだ。
 ダグラスは頤に指を当て、目を眇めて呟いた。
「つまり彼女は未だ重要な事を隠していて、見つかったら脅されるなんていうのとは違うレベルで逃げなきゃいけない立場だっていうことかな?」
「俺はそう思う」
 言い切れば、モイラは苦々しく顔を歪めた。その表情がクリスの考えを如実に肯定している。
 やがて彼女は、観念したように息を吐き出した。
「……本当に、詳しいことは知っちゃいないんだ。ただ、アタシは覚えているってだけさ」
「何を?」
「アタシの体を好きにした男どものことをさ」
 低い笑い声に、クリスとダグラスは揃って眉根を寄せた。
「アタシは親に二束三文で組織に売られたらしいんだよ。覚えちゃいないけどね。まぁ普通ならそのまま流通ルートをたどってろくでもないところに辿り着いただろうね。だけどどういうわけか幼女趣味の親父に目を付けられてね。商品として出される前に奴らの間で嬲られることになったってわけさ」
「……すまん」
「あんたが謝る必要はないさ。昔話だしね。とにかくそうやってアタシは組織の奴らの間で囲われることになった。勿論、くそ忌々しいゼナス・スコットも来たし、時にはここや国外に出張もあったくらいさ。高価なレンタル商品だったんだろうねぇ。ほんと、いろんな客をとったもんだ」
「つまり、覚えているってのは、その客をってこと?」
「そう」
「向こうも、――失礼な言い方だと思うけど、君を買ったって覚えてるわけかい?」
「いや、それはないね。あんただって、単なる一時のおもちゃの造形を事細かに覚えてなんかいないだろ? それと同じさ。アタシだって、時には仮面被ったままの親父相手ににしたことだってあるくらいだから、面と向かわなきゃわからないさ」
「仮面?」
「そう。背はそんなに高くなかったように思う。太ってて弛みきった体がとりあえず気持ち悪かった。アタシが屋敷に放り込まれてすぐくらいは出入りしてたけど、……どっかで見たことある気がするんだよね。ちょっとだけ見えてた口元とかが」
「口元?」
「そ、そこしか出てないんだよ。顔。ひとことも喋らないし、不気味だったね」
 人身売買組織自体が闇の領域に属することを思えば、そこにはっきりと関わる者が中で顔を隠す意味が判らない。国外からの重要な客だったというのが一番手堅い路線か。


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