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「でも、そういったおかしなのを除けば、じっと顔を見れば判る?」
「そう」
「そういうこと、か」
 得心したように頷くダグラスの横で、クリスは内心で首を傾げていた。
 客の顔をモイラは覚えている。しかし彼女自身は組織に関わる気は全くない。つまり偶然が働いてかつて自分を嬲った男に出会ってそうと気づいたとしても、彼女はそれを吹聴したりしないだろう。となれば、逃げ出した女など組織にとっては脅威でもなんでもないはず。だが現実、彼女は逃げ続けている。
 何か忘れているな、と思い、クリスは不愉快な感情に舌を打つ。答えは捉えかけているのに、とダグラスに目を向ければ、彼はちらりと笑みを向けたようだった。
「わかったかい?」
 言いたいことが、とモイラの視線が問う。唸るクリスを横に、ダグラスは小さく口の端を曲げた。
「君を管理していた夫が逃げている以上、安心できないってことだね」
「あっ」
「ニール・ベイツは、他に屋敷に預かることになった人の行動を管理していた人物ってことでいいかな?」
「実際には他の仕事もしていたようだけどね。少なくとも屋敷の中ではそういう立ち位置だったよ」
 なるほど、とクリスはひとつ頷いた。これで判ったことがいくつかある。まずは当然の事ながら、モイラことダーラ・リーヴィスが隠れていなくてはならない理由。他には、逃亡中のニール・ベイツが国外の客、もしくは組織の人間と深い繋がりのもてる立場であったこと。
 そして、件の屋敷で見つかった重要な”物証”が何であるかの手がかりだ。
(取引に使う物や某かの証拠品というよりは、国内外の顧客リスト、もしくは取引先を示すもの……? 他には、モイラさんみたいな被害者のこと?)
 後者はともかくとして、前者であれば確かに貴重とされるに足る”物証”である。五年前には暴けなかった国外の組織の実態を晒すことが出来るだろう。
(だけど、そんな大層なものなら、何故今までニール・ベイツは放置しておいたんだ? 隠した場所の仕掛けに問題があるとしても、本気で取り戻そうとすれば、やっぱり出来ない話じゃないんだし)
 重要な物であればあるほど、幹部以外のものにその存在を晒したくないという理由は判る。だが相手は裏社会の最大派閥だ。人を騙して協力させておいて、用済みとなった瞬間に殺す、それくらいはやってのけてもおかしくはない。
 だが現実には”物証”は五年間屋敷の中にひっそりと息を潜めていた。ニール・ベイツか他の幹部が捜査官の動向を見張り、”物証”を見つけた瞬間に奪うべく行動を起こしたと言うことだけがはっきりしている。
 何故存在を知りながら行動に起こさなかったのか。これを一番単純に考えるなら、”物証”がどこかにあると知りながらも、どこに隠されているのかは知らなかったということになる。だが、そんなことがあり得るのだろうか。
(ニール・ベイツが国外の組織に”物証”の存在だけを知らせて死んでしまったとか。――いや、それなら、五年間の間にもっと大々的に組織がそれを捜しに行っていてもおかしくはないわけだし)
 浮かんだ疑問は、はじまりの根本に横たわるものだ。その答えを導き出すには、失われた欠片が多すぎる。今、そこに拘るべきではないだろう。
 クリスは緩く頭振り、モイラへと顔を向けた。
「他には、――屋敷のことで覚えていることは?」
「そう自由な身でもなかったからね。屋敷に出入りしてた奴らはだいたいが同じ奴らだったことと、たまに攫ってきたか売られてきた女を何日か置いていたことくらいさね。少なくとも、あそこは中継地点みたいなところで、最終的に被害者の行く末を決めてたとかいう場所じゃなかったと思う」
「何か怪しい場所などは?」
「ぱっと見、普通の家だったからね。もしかしたら隠し金庫とかはあったかも知れないけど、アタシはそんなのに関わる権限なかったから。せいぜい、自分の部屋が与えられて、その空間と窓からの景色を自由に見ることが出来る程度さ。あとは、手慰みに何かを作ったり、たまに客が何か買ってくれるくらいだったからね」
「他の女性と接触したりは?」
「殆どなかったよ。部屋から出るとき、知らない場所に行くときは目隠しもされてたし。そうさね、そんなに歩いても居ないのに全く雰囲気の違う場所に連れ込まれたこともあったから、隠し部屋はあったと思う。ただ、アタシ以外の連中は普通に出入りしてたみたいだし、そう言う場所が今も見つけられずに放置されてるってのは可能性低いなじゃない?」
 モイラは屋敷の住人でありながら、囚われの身でもあった。それを思えば彼女の言葉に疑う余地はない。
 ここまでか、と思い、クリスはダグラスに視線を寄越す。同じ思いだったのだろう。ダグラスは心得たように頷き、姿勢を正した。
「判ったよ。貴重な話、ありがとう」
「帰るかい? まぁ、気をつけて」
 気楽に応え、モイラはひらひらと手を振った。心中、清々するとでも思っているのだろうが、それをおくびにも出さないあたりは慣れたものだ。
 ダグラスに続いて席を立ったクリスは、短く礼を言って部屋の出口へと向かった。扉を開けると、静かだった通路に人の動く音がそこかしこから響いている。夜の女たちが起き出したようだ。
 モイラも今からが仕事の時間となるだろう。思い、クリスはふと足を止めた。休息の時間に突然訪ね、一方的に話を引き出して消える。これはかなり、モイラを侮辱していることにならないだろうか。
「クリス?」
「先に出て待っていてくれ」
 訝しげなダグラスに断り、クリスはモイラの部屋へと引き返した。そうして、まだソファに座ったままの彼女に会釈する。
 出たばかりの男の顔に、モイラは不思議そうな顔を上げた。
「なんだい、忘れ物かい?」
「いや」
「じゃあ、どうしたのさ」
「……なにか発見があった場合は、あなたに何か報いたいが、希望はあるか?」
「アタシに?」
 婀娜っぽい表情の中に驚きを浮かべて、モイラは小さく首を傾げた。心底思いがけない言葉をかけられた、という様子である。
 だが、逃亡時に軍と契約を交わしたとは言え、彼女がはじめに言ったとおり、クリスたちには何の義理もない。すでに過去のとなった記憶を見知らぬ者に掘り起こされるのは、苦痛以外のなにものでもなかっただろう。
 モイラの立場を暴くのに反則技を使ったと自覚のあるクリスとしては、せめてもの償いくらいはしたいところである。
「まぁ、出来ることと言ってもたかが知れているが」
「馬鹿だねぇ。契約なんだから、気にしなくて良いよ。アタシだって、見抜かれなきゃしらばっくれるつもりだったしね」
「しかし、嫌なことを思い出させた」
「そうでもないよ。アタシはまだましだったって自分でも思うしね。好き勝手されてたって言っても、衣食住は確保されてたし、環境が劣悪だったわけでもないし」


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