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6.


 サムエル地方は国の最西に存在する、若干縦に長い、西のレアル国との国境地帯だ。もとは同じ名の小国の領土であったが、亡国となって既に半世紀以上が経過している。戦争による侵略結果ではなく緩やかな吸収合併であったため、若い世代にはそのことを知らぬ者も多い。
 広大な平野を有してはいるが残念なことに安定した降水がないため、肥沃と言うには土地が痩せている。治水は行われているが、領主が変わるたび、国境で戦端が開かれるたびに中断されるため、なかなか思うように進んではいない。このあたりは国のトップの交代に合わせて事業計画が変化しやすい、イエーツ国独特の問題だと言えよう。
 夏のこの時期にあってサムエル地方南東部は比較的湿度が低く、季節風の影響で体感的に涼しく感じられるため避暑に訪れる者も多い。急ぎ、とは言ったものの実際の所さほど差し迫った状況でもないため、結局クリスとダグラスは避暑客に紛れながら三日費やして目的の町にたどり着くこととなった。
 夕方の喧噪、というほどでもない人ごみの中、予め打ち合わせておいた宿の軒をくぐる。宿の亭主に断りを入れて奥に進めば、丁度食堂で見知った顔が固まって座っていた。
「遅くなった」
 実際には予定通り、と言ったところだが、決まり文句のようなものである。
「そちらはどうだ?」
「ぼちぼち、だ」
 笑いながら席を引いて促したのはレスターである。クリスたちと同じく旅人然とした簡素な服装だが、それでもどことなく上質な華を感じるのはさすがというべきか。もう少し着崩せば、男の色気まで滲み出そうな勢いだ。
 余計なことを考えつつ腰を下ろしたクリスは、給仕の男に麦酒を頼んで深々とため息を吐いた。
「疲れているな」
「こんなに長距離を一気に移動したのは初めてだ」
「おや? 新兵訓練の時、長距離はおろか、夜間山越えもしただろう?」
 不思議そうな声に、クリスはぎくりと背を震わせた。確かに数日ほど家を空けることもあったクリストファーだが、実際にどんな訓練をしていたかまでは知るわけもない。
 内心焦りの境地に立ちながら、クリスはわざとむっとしたように目を細めた。
「あれは、……無我夢中だったからな」
 言い訳と言うにもお粗末な返答だが、詳しい内容を知らない以上、他に言いようもない。そうか? と問いたげに首を傾げたレスターから目を逸らしつつ、クリスは次の理由を必死で考える。
 そんな彼を思わぬ方向から援護したのは、同じく長い行程に愚痴をこぼしていたダグラスだった。
「あー、あれはかなりきつかったよね。僕も思い出したくもないな、あれは。レスターは馬鹿みたいに体力あるから大丈夫だったんだろうけど!」
「どう見ても、私よりクリスの方が持久力ありそうだが」
「今と何年も前は違う。……それに、俺は普段は歩兵だ。馬での移動はお前の方に分がある」
「ああ、それもそうか」
 苦笑しつつ納得したように頷くレスターを横目に、クリスは上着のボタンを外す振りをして胸を押さえた。
(しっ、心臓に悪い……)
 周囲に響いているのではないかと思うほど、心拍が上がっている。手のひらに滲む汗を拭いつつ、油断した自分に舌を打つ。
 無口、無愛想、と心の中で呪文のように繰り返しつつ、クリスは話題を変えるべく切り込んだことを口にした。
「それより、あそこはどうだった?」
 むろん、屋敷の探索のことである。少なくとも半日早く到着しているはずの三人が、最寄りのこの町で無駄に時間を潰していたとは思えない。
 特に真面目が擬人化したようなヴェラは、と思いつつ正面を見れば、彼女は薄く笑って心得たように頷いた。
「いつそのくだらない雑談を切ろうかと思っていましたが、肝心な事を忘れていなくて幸いです」
「それは、失礼」
 きつい言葉にもさして気分を害した様子もなく、レスターは微笑を返す。
「しかし、クリス。残念だが報告できるようなことは何もない」
「どういうことだ?」
「言葉のままだ。荒れ果てた屋敷は確認したが、半日ほどの探索では何も目新しいことは発見できなかったということだ」
「まぁ、今まで散々捜査されてきたところだからな」
 もとい、ヴェラ以外は捜査に関しては素人同然である。無理からぬことだ、とクリスは頷いた。
「それで? そっちはどうだったんだい?」
 相変わらずの皮肉っぽい笑みを浮かべながら、アランが頬杖をついていた指を向ける。
「美人とよろしくやってきたのかい?」
「面白い話は聞けたが」
 ヴェラの周囲で瞬間的に凍りかけた空気を熔解すべく、クリスは速攻で話の筋を戻す。軽口を叩きながらの報告会、というのが彼にとっても望ましい雰囲気ではあるのだが、当てつけのような逸れ方は遠慮したいところである。疲れているところに険悪な雰囲気はさすがにいただけない。
 モイラから聞いた話をどう伝えるかは、既にダグラスと打ち合わせが済んでいる。つまりは、紹介されたのがダーラ・リーヴィスその人であったことは伏せ、他は伝聞という形で知ったことのうち信憑性の高い事を話して貰った、という設定で全て話すことにした。ダーラ本人であったことを隠すのは、主にヴェラの存在が理由である。取引が過去のものとはいえ、新たに浮かび上がる参考人を法務省は見逃してはくれないだろうというダグラスの見解だ。彼からの追及を「カマをかけた」という一点張りで突き通したクリスには、勿論、その提案に対する拒否権も拒否する気持ちもなかった。
 ダグラスが先に話し始めたため、クリスは麦酒で喉を潤しながら周囲へと目を配る。町人旅人入り交じった中、警戒にどれほどの意味があるのかは判らないが、聞き耳を立てようとする者がいないか注意を向けることで、ある種の威圧程度にはなるだろう。
 新しい見解にはほど遠く、しかし無益というわけでもない情報に、聞く側の三人はそれぞれの表情で考え込んだようだった。
「国外の顧客リストか被害者のリスト……、なるほど、それなら組織が必死に回収しようとしているのも判りますね」
 頷きながらも驚いた様子がないのは、おそらくヴェラの所属する法務省でも、”物証”の正体の憶測が立てられているためだろう。クリスたちの情報はそれを補強するものでしかなかったが、確定に近づける一歩であることには違いない。
「やっぱり、国外勢力の警戒かね」
「その線は濃厚のようですが、断定はしかねます」
「はっ、慎重だねぇ。だから後手後手に回るんだよ」
「急がば回れという言葉をご存じ?」
「……それはともかくとして、古い木の根元、というのが気になるが」
 強引に話の流れを変え、レスターは安作りの椅子をギィ、と鳴らした。その有無を言わせぬ様子に、先行した三人の旅路が目に浮かぶようである。


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