[]  [目次]  [



 珍しくもアランの発言にヴェラが素直な同意を示し、結果、しばしの沈黙が落ちた。
「……では、やはり今晩は拠点の町に泊まるとして、夕方までもう少し探索してみましょう」
「了解」
 了承したというよりも、それ以外に良策がない、といったところか。
 短い昼食の後それぞれが思うところへと散り、結局その後は収穫もないまま町へ引き返すこととなった。

 *

 ふと、物音に意識が浮上する。床の鳴る音だ。
 強烈な眠気が頭を支配する中、それに抗うように目を開くことが出来たのは、もともとクリストファーという男が持つ習性のおかげだろう。反復訓練により会得された危機意識からの警告というべきか。
(……誰だ?)
 足音は次第に近づいてきている。おかしい、とクリスは布団の中で剣の柄に手をかけた。部屋の中にクリス以外の人間が居るわけがない。他人との雑魚寝を拒否したアランと、どちらにせよ個室を取らざるを得ないヴェラに準じ、全員がそれぞれひとつ部屋を確保したのだ。
 故に誰かがこの部屋にいるとすれば、勿論それは、招かざる侵入者でしかない。
(鍵は……)
 思い、クリスは内心で短く舌を打つ。かけた覚えがない。それどころか、夕食以降の行動がひどく曖昧だ。
 深酒でもなく、記憶を無くすほどの疲労のピークであったわけでもない以上、薬を盛られたこと見た方がよさそうである。意思とは真逆の強制的な強い眠気と強烈な怠さが、その証明といえるだろう。
 神経毒、麻痺毒の類ではなかったことは幸いか。
(目的は、金銭か、それとも例の『鍵』か?)
 この場合、誰が、どこで、という問いは無意味だろう。街人、旅人、その他多くが集う食堂で給仕の者が運んできたのを皆で食べたのだ。誰にでも機会はあった。身なりの良い若者がわざわざ値の張る個室を五つも占領すれば、手癖の悪い者が目を輝かせても不思議はない。
 だが、確率を思えば、やはり『鍵』を狙った犯行と見る方が遙かに高いだろう。
 まず、盗人が目を付けたとしても、見るからに戦闘能力のありそうなクリスやレスターをわざわざ狙う馬鹿はいない。そして薬の効くタイミングが絶妙に過ぎる。
 四人のうちの誰か、もしくは第三者。後者であればむろんそれは組織の人間ということになる。五人もの目を誤魔化すのは確かに難しいが、見張っていることに限定するならば、訓練を積んだ者には不可能ではないだろう。
(そう、思いたいだけかも知れないが)
 人身売買組織の者だとすれば、睡眠薬などといった温い代物では済まないと想像に易い。致死性の物を用意して、確実に仕留めにかかるだろう。その上で、鍵を奪っていく。
 だが、そうした第三者でなければ、クリスが極力疑うまいと決めた四人のうちの誰かということになる。否、消去法は既にそうだと告げている。
 布団の下で歯がみしながら、クリスは機会を伺った。侵入者が彼に積極的に近づいてくる様子はない。器用にもほとんど音を立てないままに荷物を探っている。
 鞄、小袋、と最も手に着けやすいものから探り続けた侵入者は、そのうちに気が大きくなってきたのだろう。動く様子を見せないクリスに薬の威力を過大評価したか、次第にクリスを伺う機会が減っていった。
(金の入った袋は無視、か……。やっぱり、これは)
 強く眉間に力を入れたクリスの耳に、わずかに布の擦れる音が響く。ほとんど同時に、彼は唾を飲み込んだ。記憶にもない寝る直前の彼が何もしなかったのなら、鍵は昼に仕舞った時そのままに、内ポケットに仕舞われているはずだ。身につけている最中は最も安全なそこも、ひとたび体から離れてしまえば隠蔽力、防御力共にないに等しい。
 今にも飛び出して上着を奪い取りたいとする衝動を、クリスは必死に耐えた。
 そして、その瞬間、――侵入者が目的のものを見つけ、安堵と共に警戒を手放した一瞬。
 言葉を発さぬまま、クリスは布団をはね除け、短剣を走らせた。
「!」
 だが、動きが鈍い。咄嗟に構えたであろう相手の武器に寸でのところで弾かれる。失敗だ。こうなってしまっては、鍵を手にされた状況が悪い方向にしか転ばない。
 力の入らない足で踏ん張り、クリスは相手を認めようと顔を上げる。
 だが、彼の目にその姿が映ることはなかった。
「くっ……!」
 強烈な光が、突如闇に慣れた目を襲った。目の前に、小さなランタンが突き出されたのだ。申し訳程度の光だが、間近で見てしまったのが不運、呻くクリスの視界が一瞬白く染まる。
 咄嗟に目を押さえた彼の側頭部に、別の衝撃が走ったのはその直後だった。
「っ!」
 衝撃で、手から剣が滑り落ちる。よろめき、クリスがベッドの縁に手をつくと同時に、ガタリ、とそれまでになく大きな音が響いた。途端、吹き込む温い風。
「……っさせるか!」
 唸り、クリスは再び短剣を振るった。もともとはクリスティンが護身のために忍ばせていた懐剣だ。単なる癖で持ち歩いていたものだが、小回りが効く得物が手元にあったことは幸いだった。違う肉体であるはずが、妙に手に馴染む。扱いに難はない。
 息を呑む音に続き、ひどく乱れた気配が場をかき混ぜた。明らかな動揺。まさかこの短い間に、反撃が来るとは思わなかったのだろう。
 一閃。弾かれる。視力はまだ回復していない。殆ど勘だ。返す手で宙と掻く。空振りはしかし、相手の不安を増強させる軌道を描いたようだった。机の上に乗っていた鞄が床に落ち、中のものが床に散乱する。
(逃がすか!)
 部屋に設えられた家具の位置関係は把握している。窓から逃げようとするならば、相手は必ず机の横にいるはずだ。
 あたりをつけ、クリスは渾身の力で短剣を投げ放った。
「……っ!」
 短く、息を呑む音。
 窓枠が軋み、壁が短くも太い音を立てる。そしてそれらを同時に耳にしたクリスは、しかし、それがどういう意味を示すものなのかを考える間もなく、驚愕に目を見開くこととなった。
 ――それなりに距離のあったはず侵入者は、果たしていつの間に接近していたのか。
 至近距離から顎を鋭く打たれ、構えることも出来ずにクリスはベッドへと倒れ込む。目の前には火花。気絶には至らない、だが急所を的確に狙った一撃は、確実に彼の思考能力を奪い去った。
 時間にしてせいぜい、それは数秒ほどの間だっただろう。混乱する頭を物理的に手で支えながら、クリスはのろのろと身を起こす。
 しかしそうした彼の、汗の浮く額を撫でる風は変わらずも、既にそこに他人の気配はなかった。代わりにいつの間にか、階下に騒然とした気配が満ちている。
「何ごとです、クリストファー・レイ!」
 激しく扉を叩く音に、クリスはそこで初めて扉につっかえ棒がかけられているのに気がついた。それはつまり、入り込んだ者がはじめから窓を逃走経路として定めていたということに他ならない。


[]  [目次]  [