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(この宿の、この部屋に私が泊まっていることを知っていて、対策が取れる者……か)
 力の入らない体を叱咤して窓の外を見回せば、人通りもなさそうな路地がすぐに目に入る。二階だが全体的に下の階の天井が突きだした造りになっているため、少しばかり身体能力に優れ、それなりの度胸のあるものなら無傷で飛び降りることも十分に可能だろう。ごく平均的な街娘が落ちたところで、打つどころさえ悪くなければせいぜい足を捻って痛める程度で済むに違いない。
 短く舌を打ちながら窓際の壁に突き刺さった剣を抜き、そこでクリスは眉根を寄せた。
 ――刃に薄く、血が付いている。
「レイ! どうしたのです!?」
「――今、開ける」
 剣を鞘に戻し懐に仕舞いながら、クリスは棒を取り外した。殆ど同時に扉が内向きに開き、ヴェラが転ぶように入り込む。昼にはきちんと結わえられていた髪が、やや乱れて彼女の腰のあたりで大きく揺れた。
「何があったのですか」
「侵入者だ」
「――まさか!?」
 否定の意味合いではない。狙われた物が何であるかを正確に察知して上げた、鋭い声だ。
「盗まれた。どうやら俺は薬を盛られていたらしい。今も力が入らない」
「誰が、そんな大胆なことを!」
「誰だと思う?」
 真正面から見つめれば、ヴェラは僅かに怯んだようだった。顔合わせの初めから警戒心をむき出しにしている彼女も、さすがに危惧が現実化するという覚悟には至っていなかったようである。しばらくはせいぜい互いが足を引っ張り合い仕事が難航する、といった程度の問題だと思っていたのだろう。
 指に爪を立てながら、ヴェラは悔しそうに吐き捨てた。
「対策をとっておくべきでした」
「いや、俺が無防備過ぎた」
 舌打ちを堪えたような苦い声で後悔を口にする。と、再び通路の方が騒がしくなった。複数の足音。残る三人のものだろう。真っ先に駆けつけたヴェラの部屋がクリスの真下であったこと、他は少し離れた建て増しの棟の部屋であったことを思えば、そう遅いと決めつけられる時間差でもない。
「何かあったのか!?」
「どうした!?」
 躊躇いもなく扉を押し開けたダグラスが、クリスの顔を見て強く眉根を寄せた。
「盗まれた?」
 こちらは、単刀直入である。
「盗んだ奴は?」
「窓から逃げた」
 クリスの言葉に、後から入ってきた三人が揃って窓へ駆け寄る。同時に室内を見回していたところを見ると、彼らの部屋は構造が異なるのかも知れない。その三者三様の反応を注視するクリスだったが、さすがに不自然な点はどこにも感じられなかった。むろん、演技をするにしても難しい役どころではないといえばそれまでだ。
「窓からの出入りは簡単そうだね」
 顔を歪めたアランが、睨むようにクリスを見つめた。
「けど、軍人のくせに、不甲斐ないにもほどがあるだろ」
「悪い。薬を盛られていた」
 正直なところ、今も怠さと眠気はひっきりなしにクリスを苛んでいる。気づかれないように振る舞っていたのは、意地に近いレベルだ。思い通りに動かない体で勝機を見計らったつもりが徒となった後悔、そこからくるやせ我慢である。
 問うたアランはむっとしたように唇を引き結び、代わりにヴェラが深い息を吐いた。
「判っていると思いますが、私はあなた方を疑っています」
「俺の方も逆にあんたを疑ってるよ」
 真っ先に応えたのはアランで、他のふたりはただ短く苦笑した。
「部屋を割り振ったのはあんただぜ? 窓から逃げたのなら、その下のあんたはさぞ楽々と自分の部屋に戻れただろうな」
「外から回り込めば、あなた方の部屋にもすぐ戻れるはずですが?」
「外に人が歩いてるかも知れないのにかい? そういやあんた、昼間っからやたらと法務省にアレを持って行きたがってたよな、なにか……」
「少なくとも、ヴェラではない」
 さすがに言いがかりの域だと判断し、クリスはアランの語尾に割り込んだ。
「光を当てられてよくは見えなかったが、胸より下に髪はなかった」
「はん、きっちり頭の上で結んでたかもしれないだろ?」
「違う。夕食前にそれぞれ埃を落としに行ったが、その時からヴェラは髪を下ろしていた。邪魔になるからとして結わえておいたなら、しばらくはそういう跡がつくが、今は乱れてるだけでそういった様子はない」
「侵入者の体格は見当つくのか?」
 納得したように頷いたレスターが、別の方面の質問に変える。だがこれにはクリスは首を横に振らざるを得なかった。小さくはなかったとは言えるが、この中で一番小柄なダグラスと、クリスを除けば一番体格の良いレスターを見比べても、侵入者の大きさを判じるには厳しいものがある。
「他に何か気づいたことは?」
「……遭遇は短い間で、応戦というほどのこともできなかったからな」
 僅かに空いた間は、クリスの躊躇いだ。侵入者は怪我をしている、そう告げるのは容易い。だが、必ずしも目印になるほどのものでもないのだ。勢いを殆ど殺さぬまま、剣が壁に突き刺さっていたのがその証拠である。せいぜい皮膚を裂いた程度か。
 と、クリスの言葉を受けて、ヴェラが思案気な目を皆に走らせた。
「私は下の階に居ましたが、何度か物音が響きました。戦っていたのではないのですか?」
「大きな物音はおそらく、俺が剣を落とした音と、椅子が転がった音、後は侵入者が逃げる際の音だろう」
「最後は結構響きましたが?」
「? ……ああ、悪い。それは顎を殴られた後だろう。聞いていない」
 クリスの覚えている最後の音は、確かに太く重いものではあったが響くほどではない。殴られ、気を遣っていた間の事だろう。
「では、もしかしたら、逃げる際に着地に失敗しているかもしれませんね」
 万全の体制で逃げたのなら、確かに不用意な音を立てることはない。
「レイ以外に怪我をしている人は?」
「脱がして調べて貰ってもいいけど、僕は何もないよ。アランは肘を庇ってるみたいだけど」
「! それは……、物音がして起きた後、机の角で擦り剥いただけだ。何かおかしいかい?」
 それにしては傷が深い気もするが、暗闇で慣れない部屋で咄嗟に、と言われれば追及することもできない。剣でつけた傷にも見えないが、浅いそれを誤魔化すために上から更なる傷をつけたとすれば見た目に拘るべきではないだろう。ただ、ヴェラの推測による怪我の形には近い。
 どうとでも取れると判じたクリスを余所に、ヴェラから無言の圧力を受けたアランは、不貞腐れたように不穏な空気をまとわせた。


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