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「侵入者はどっちにしてもレイにそうと気づかれてる。怪我もしてないのに、わざと音を立ててそうとみせかけたとも言えるんじゃないかい?」
「そうですか。内部の犯行だとあなたは限定しているわけですね」
「! そっちが言いだしたことだろうが!」
「私は消去法の材料にするために尋ねているだけです。それに対し、あなたの推論は内部犯行と決めつけた上でのものです。外部からの可能性を考慮に入れた判断であれば、それが如何に無意味な推論であったか判るというものでしょう」
「その通りだ」
 言葉を詰まらせるアランに代わり、レスターが口を挟む。
「その通りだが、残念ながら怪我をしているのはひとりとは限らない。傷なら私にもある」
「レスターにも?」
「探索中に裂いた傷が開いただけだがね」
 目を遣れば、丁度左手甲と手首の境目に一筋の鋭い傷。こちらの方がそれらしいとも言えるが、怪我をしたと認識しているはずの侵入者が、目立つ場所そのままに放置しておくものだろうか。しかも、クリスが刃傷のことを黙秘している事を知りつつ、主に擦過傷や打撲痕を求めているようなこの場で、だ。
 剣による傷の存在を知らないヴェラに至っては、話にならないといったように首を横に振った。
「落下して、そのような怪我をするとでも?」
「落下した際に怪我をしたとは限らない。確実性のない情報から怪しきを疑うのは下策だと思うが、どうだ?」
 切り返しに、ヴェラは唇を引き結んだ。
 だが、とクリスは思う。彼が図らずして明らかになった「怪我人」はふたり。
(外部犯じゃない限り、ふたりのうちのどちらかだ)
 嫌な汗が背中を伝う。できれば、外部であって欲しい。

 ――疑うべきはどちらか。

 疑いたくはない。だがいずれ疑わざるを得なくなるのだろう。
(だが、決定的な証拠が見つかるまでは)
 信用していたい。思いつつクリスは、小さく喉を鳴らした。

 *

 薄暗い部屋の中、手のひらに収まった鉄の冷たさを感じながら、ルークは短く息を吐いた。
 重い。小さな細い鍵とは思えないほどの重量を感じる。だがそれはおそらく、心が感じる重さなのだろう。
「ヒヒヒ、それが例の鍵かい?」
 背後から覗き込む男に顔をしかめつつ、ルークはさりげなく指を曲げる。
「そんなに警戒しなくったっていいさ。取り上げたりはしねぇって」
「何の用ですか」
「つれないねぇ。本体のないただの鉄鍵なんざ、今は用なんてねぇよ。眺めてたって何にもならんし、へへ、どうせ眺めるなら、奥さんの方がいいからなぁ」
 言い、男は下卑た笑みを浮かべた。粘性を帯びた目は腐臭を撒いてどこまでも昏い。視姦という言葉が具現化するなら、間違いなく今の彼の目がそれにあたるだろう。
 不穏な色を認め、ルークは肩越しに男を睨み付けた。
「おお、怖い怖い。へへ、心配しなくても、あんたが余計なことしねぇかぎり、俺ぁ奥さんに手を出したりなんかしねぇさ」
「……」
「そういう約束だからなぁ」
 確かに、男はルークの前にしか現れない。だが彼がどうやってこの家と外を出入りしているのか、使用人にさえ気づかれず何度もそれを為せるのは何故か、家主のルークですら知るところにない。王宮などとは違い、家の間取りにおかしなところはないが、それだけに尚更、男の神出鬼没な行動は不気味だった。
(妻に聞けば何か判るか……いや)
 もともとは妻の生家の伝手で手にした家である。彼女に聞けば或いは何か判るのかも知れないが、どう切り出せばいいのかが判らない。ましてや今、彼女は体調を崩している。大丈夫だとルークには言い張るが、ふとした拍子に不安気な顔を見せるのだ。
 人には言えない戸惑い。それは後ろにいる男に原因を持つのではないかとルークは思う。誰かに見られている感じがすると、以前逆恨みから付け狙われていた法務省の女性職員が、丁度最近の妻と似たような表情を浮かべていた。普段外出することのない妻が、勝手に出入りする男の存在を朧気に感じている可能性がある。
 ただでさえ繊細な妻には要らぬ心配などかけたくない。だが、その状況を作り上げているのは、他でもないルーク自身だ。深く息を吐き、ルークは背後向かって目を眇めた。
「用がないなら出て行ってください」
「怖い怖い」
 嘯く男を睨み付ける。
「まぁ、待……」
「あなた?」
 外部からの遠慮がちの声。同時に控えめなノックの音が響く。
「あなた、失礼しま……」
「来るな!」
 咄嗟に叫ぶ。だがその制止も寸でのところで間に合わなかったようだった。半分ほど開かれた扉から、目を丸くした妻の姿が覗いている。
 普段、ルークが怒鳴るということがないためだろう。驚きと怯えの混じった顔で彼女は立ちすくんでいた。
「……いえ、すみません」
 声量を落とし、ルークは深々と息を吐く。いつの間にか、背後の男は姿を消していた。――否、未だこの部屋にいるだろう。少なくも別の出入り口、すなわち窓から出て行った様子はない。
 妻は、素早く逃げた男には気付かなかったようだ。男が最低限の約束を守っていることに安堵を覚え、ルークは浅く息を吐く。そうしてさりげなく手の中の鍵を引き出しの中に仕舞いながら、彼は口元に大げさな笑みを刷いた。
「考え事をしていて、少し気が立っていたようです。本当にすみません、トリッシュ」
 本当かと問うように妻の作る影が壁に揺れる。
「それより、どうしたのですか?」
「え、ええ……」
「医師にゆっくり休養を取るよう言われているのでしょう? 休まなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫ですわ。その、用事はないのですけど……、いえ、部屋から、話し声が聞こえたものですから、気になって」
「それは……」
 ぎよっとしてルークは肩を揺らす。だが、更なる不安を帯びた妻の顔を見て、彼は無理矢理動揺を押さえ込んだ。
「たぶん、独り言でしょう。書類をまとめていましてね、あれこれ考えていましたから」
「そ、そうなのですか?」


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