「ええ、他に人はいませんから、それ以外ありません」
幾分顔色の悪い妻の困惑を払い落とすように、ルークは声を強く重ねた。
「それよりも、体調が優れないのでしょう? 私はもうひと仕事しますので、あなたは先に休んでください」
「で、でも」
「是非、そうして下さい。あなたの沈んだ顔を見ていると、私まで苦しくなりますから。あなたの笑顔が私の活力源なのですよ」
「まぁ……、あなたったら、何を」
呆れながらもはっきりと頬を染め、恥じらうように俯くその容姿は、年を経ても変わらずに美しい。それまでのわざとらしさから一転、ルークの口元が自然に弛む。
「嘘でも冗談でもありませんよ」
「もう。でも、そうですわね。私は起きていてもあなたの仕事のお役には立てませんから。先に休ませていただきますわ」
「はい。夜更かしは美容と健康の敵でもありますしね」
「もう……」
「ゆっくり休むのですよ。お休みなさい」
「ええ、あなたもほどほどになさってね」
来たときよりも生気を取り戻したような様子の妻を見て、ルークは演技ではない笑みを浮かべた。
「それでは、おやすみなさいまし」
優雅に礼をとり、たおやかな姿が部屋を後にする。扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを確認して、ルークは笑みを自嘲に変えた。
妻を苦しめておきながら、わざとらしく優しい言葉をかける。そうしてそれで得られるものを自分は心底欲しているのだ。
(なんて、浅ましい)
机の上に肘をつき、組み合わせた手の上に額を乗せ、ルークは祈るように腰を屈める。
(チェスター様、……私は何故、こうも愚かなのでしょう)
思い浮かべるのは、忘れることも出来ないひとりの男の顔だ。
「おいおい、忘れてんじゃねーだろうなぁ?」
その悔恨の思いに満ちた背を、濁った声が叩く。
「見せつけてくれるねぇ。あんな美人抱けるなんて羨ましいねぇ」
「黙りなさい」
「いいじゃねぇか、寂しい男の頭の中でくらい、好きにさせてくれよ」
「……金か」
「へへへ、話が早いねぇ」
色事に拘る意味を察して懐からそれなりの金を出せば、男は悪びれた様子もなくあっさりとそれを受け取った。むろん、計算高い彼が本当にそのために金を無心していたのか、他に用途があるのかはルークの知るところにはない。
金を用心深くポケットに仕舞った男は、にやけた、しかしどこか油断のならない笑みをルークに向けた。
「気前がいいねぇ。それじゃ、ちょっとサービスしてやろうかな」
「?」
「ほらよ」
某かの罠が仕掛けられているとは承知の上だが、毎度の事ながらその意図を掴むことが難しい。目を細めて男が差し出したものをルークは躊躇いながら受け取り、そうして直後に顔を強ばらせた。
「……っ!」
その光景を見る者があれば不審に首を傾げただろう。ルークが受け取ったのは、一枚の紙片。染み、ふやけ、変色した古い紙だ。目もろくに通していないうちに何が判るのかと。
――を持ち、――と――の契約を――をして成――とみなす。
滲んだ文字がルークの目の中で揺れる。鮮明に過ぎる映像とは逆に周囲の音は途絶え、足下の感覚すらなくなっていく。
どこにでもある紙、どうとでも取れる文、しかし、この男がこのタイミングで持ち出してきた、それこそが重要なことだった。
(もしかして、既に”物証”は……)
男の手に渡っているのかもしれない。鍵を見て平然としてる姿こそがそれを示しているのではないか。
「あなたは、捜し物がある、それが”物証”か違うのか判らないと言っていましたが……本当は知っているのではありませんか?」
「さてねぇ」
どこまでも肚の底を見せない男だ。そのくせ、皮肉は目線で強く示してくる。
――アレを葬りたいのはあんただろう?
問いとも揶揄ともつかぬそれを、ルークは言語にされていないことを理由に黙秘した。
(このままでは……。この男が普段どこにいるのかを探して先手を打たないと)
そうして汗ばんだ手で紙片を握りつぶし、平静を装った声で聞き返す。
「……用件はそれだけですか」
「おっと、まさか。この為に来たわけじゃないぜ?」
「でしたら、さっさと用件を話してください」
「急くねぇ。まぁいいか。あんたに頼み事があって来たんだよ」
「頼み事……?」
意外な言葉にルークは真面目に耳を傾けかけ、次いで眉間に皺を刻み込んだ。時には脅し、時にははぐらかし、そうして相手のテンポを崩し、己の都合の良い方に流れを作るのは、男の常套手段なのだろう。
狡猾な、と内心罵りながらルークは皮肉っぽく顔を歪めた。
「命令、の間違いでしょう」
「そう言うなよ、相棒。これは、あんたの為にもなることだぜ?」
「……」
「正直に言うとなぁ。俺たちも一枚岩じゃねぇんだわ。そんで、あんたらに手伝って欲しいと思ってな。なに、簡単なこった。余計なことしてる連中をとっつかまえて欲しいってわけさ。俺たちも厄介な連中処分できて、あんたたちも国民に向けて成果が発表出来る、いい話だろ?」
「彼らを使えと? 捕まえても、引き渡しはできませんよ」
「いいさ。下っ端が目障りなだけなんでね。へへ、やる気出たかい」
男の思惑通りに動くのは癪に障るが、組織のどの部分であれ、この国に介入するのを見過ごすわけにはいかない。露払いをさせるつもりなのだろうが、見通しがよくなるのは我々もだ、とルークは腹をくくった。
「詳しく、話を聞かせて貰いましょう」
目を眇めたルークに男は、ニヤリと底の見えない笑みを浮かべた。
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