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「この間も心労から寝込んでいたくらいだからな」
「そんな、そんなの、嫉妬なんて、……どっちにも、です!」
 予想に反する答えに、クリスは何度か瞬いた。
「だって、同じくらい好きなんですもの! 比べられません!」
 断言に、からかっていたはずのクリスの胸がじわりと温もりを帯びる。
 おそらくは無意識なのだろう。だがエマは過去形を使わなかった。彼女の中では今も、クリスティンという女は瑞々しく姿を保ち続けているということだろう。
「私にとってはどちらも大切です。それじゃ、いけませんか?」
「……いや、悪かった」
「意地悪です」
 宥めるように低い位置にある頭を撫でれば、エマはむくれたように頬を膨らませた。
 もう居ない者へ阿諛追従する必要はない。心から己を想ってくれる友人に感謝すると共に、クリスはふとした衝動に駆られた。エマであれば、クリス本人にも判らない答えを出してくれるかも知れないと、淡い期待が脳裏をかすめる。
 彼女への気遣いに一瞬躊躇い、しかしクリスは結局それを口にすることにした。
「意地悪ついでに、もうひとついいか?」
「なんですか?」
「クリスティンなら、今際の際に何を願うと思う?」
「え……?」
 一瞬、時が止まるような錯覚。思考の停止、そして急激に興奮が冷めゆくままに、エマの顔が無表情へと変じていく。
 ざあ、と風が鳴った。煽られた枝が幾百ものざわめきを生み、そこから離れた葉がたわむ夏服をかすめていく。
「何を、突然……?」
 エマが戸惑うのも無理はない。話の繋がりは、クリスにしかわからないものだ。何より感情的にもついていけるはずがない。
 そうと理解しつつ、クリスは頷いた。そして、重ねて問う。
「クリスティンは、最後に何を思っただろうな」
「何故、それを聞くのですか?」
「さぁな。ただお前なら判るのではと、ふと思った。おこがましいかも知れないが、少しでも彼女の意志を継げれば、と柄にもなく思ったのかもしれん」
 後半の取って付けたような言い訳には、内心苦笑を禁じ得ない。だが幸いにも、エマはそれを真摯に受け止めたようだった。眉根を寄せて悩み、そうして何か懐かしいものを見つけたように気の抜けた表情を浮かべる。
 それはエマが、かつてクリスティンに甘えるときによく見せた顔だった。
「皆の幸せ、だと思います」
「幸せ?」
 さすがに面くらい、クリスは目を丸くする。そこまで、博愛精神を持っていた覚えはない。
 それを見て、エマはくすくすと声に出して笑った。
「クリスって莫迦なんですよ。気が強くてリーダー気質で、なんでも好きに突っ走っていくってイメージがあるのに、やってることはその逆なんです」
 随分な事を言われている、とクリスは内心で肩を落とす。
「言いだしたら聞かないくせに、よく考えてみたら、それを強行したところでクリスには何の得もないんじゃない? ってことが多くて。いっつも貧乏くじ引いてるっていうか、お人好しっていうか。でもクリス自身はそんなこと全然気づいてなくて、自分すら騙してしまうほどの莫迦――だったんです」
「……」
「だから、多分、最期に何かを願ったとしても、絶対自分のことじゃない、そんな気がします」
 莫迦だ莫迦だと言いながらも慈しむ目。クリスはそんな彼女から、無意識に視線を逸らしていた。語れない部分に引け目を感じたのか、騙しているという現実に苦いものを覚えたのか、彼自身にも判らない。
 そんなにいい人間じゃないと思いつつもクリスは、彼女の言葉を否定できずにいた。自分自身だけが知らない側面というのは、往々にして存在する。ありがた迷惑、親切の押し売りなどの言葉もあるように、意図したことが全て結果に結びつくわけではない。
 エマのクリスティンに対する評価はその逆なのだろう。それもまたひとつの意見、とクリスはエマ視点のクリスティンが願うであろう事を想像した。
(誰かのために、か)
 クリス自身の自分への認識も考慮するとすれば、その誰かの中には自分も含まれることになるだろう。
(死ぬと判った瞬間に、思うなら)
 クリスは結果を知っている。意気消沈し、伏せっていたエマ。彼女には、泣かないで欲しい、と思う。
 跡継ぎを亡くして落ち込んでいる父。彼には済まないと思う。
 幼なじみのアントニーや、長年世話をしてくれた家の者には、これからも元気でいて欲しいと。
 そして、一緒に事故に巻き込まれたクリストファーには……。

 ――駄目だ。……な事は……、……。

 響く。ふと、何かが頭の中に鈍く響き渡った。ぞわり、と背中を這う異質なもの。知るべきではない、知らなければならない、そんな相反する思いが混在したどす黒い感情。

 ――さない!

 ガラスが砕けるように落ちていく記憶の断片。粉塵と夜の闇と、映る何か。崩れ落ちる馬車と、映る何か。
 何か。
 判らない、とクリスは己の記憶に手を伸ばす。紗の奥に、確かにそれは存在する。
 だが、――届かない。
 伸ばす指先、伸ばされる手、それは、届くはずの。

「クリス!」

 鋭い声に、クリスははっと目を見開いた。額から落ちた水滴が地面に黒い染みを作る。否、干涸らびた喉とは対照的に、全身が脂汗に濡れていた。
「大丈夫か?」
「……レスター?」
 頭の上からの声に驚き、だが力のない声でクリスは呟いた。強ばり、震え、腰から折れ曲がった体を支えるのは人の腕だ。全身を預けているに等しいというのに、力強く揺るがない。状況から考えて、それはレスターということになる。
 何故ここに、と思いクリスはのろのろと顔を上げた。
「あなた……」
「エマ?」
「突然倒れるから、驚いて……!」
 言われて初めて、膝と手のひらに痛みを感じる。かすむ目で見れば、手根部には細かい砂石が食い込み、皮膚を破って血を滲ませていた。倒れ、反射的に膝と手を突いたということだろう。


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