[]  [目次]  [



「問題ない。アントニー・コリンズに頼んである」
 これもまた意外な答えに、クリスは何度か瞬いた。
「君の体調を知っている者のほうがいいのだろう?」
「……お気遣いありがとうございます」
 これには内心、胸をなで下ろした。かつての部下を、などと言われた日には、本気で仮病を使わねばならなかっただろう。それも、直前に断るという心証を最も悪くする方法で、だ。
「早速、明日と明後日を頼みたいが、何か聞くことはあるか?」
 軍で着用を義務づけられている服やその他の装備については、エマや使用人のカミラに準備を頼めば問題はない。どうにかしなければならないのは、むしろ当日の勤務や軍内部の規定そのものだ。
「一応、ひと月のブランクがありますので、新人研修室の使用と巡回場所の確認だけさせていただきたいのですが」
「真面目だね。まぁいい。使用許可証は出しておこう。あと、仮復帰の登録証も渡すから、後で事務室に寄ってくれ」
「はい」
「では、よろしく頼むよ」
 印象として忙しなさとは無縁のガードナーだが、中隊長という仕事が暇であるわけもない。用件を伝え終えた彼は、クリスが背を向けたと同時にすぐに別の書類へと目を落としたようだった。
 扉を閉めたクリスは、時間と自由とういうものの希少性を思い、深々とため息を吐く。
(参ったな。どんどんと深みにはまっているような気がする)
 なにより困るのは、クリス自身がそれを奥底では厭がっていないことだ。
 断りたい、そんな暇はない。そう思い、事実その通りでありながら、「仕事内容」自体にはそれなりに興味を持っている。兄を真似ることは難しく精神的な苦痛は大きいが、新たに経験することや見聞きすることは、もともと好奇心旺盛なクリスの探求心を激しく突いて背中を押してくるのだ。
 特に特捜隊の任務がそうだと言える。
 消えた”物証”。盗まれた鍵。人身売買組織とニール・ベイツ。メイヤー・ハウス。自殺する日を伝えてその通りに亡くなった男。
 謎のひとつも解けていない状況が、どうにも気になるのだ。ここを訪れる道中でもそうだったが、事あるごとに考えてしまう。
(こういうのが「未練」なんかに変わっちゃったりしたら、目も当てられないんだけどなぁ)
 乗っ取ったのが兄の体でなければ、そのまま居座ってしまったかも知れない、――などと物騒な事を考え、クリスはその莫迦莫迦しさに緩く頭振った。

 *

 翌夕刻。出勤途中でアントニーと合流したクリスは、並んで施設内部の待機所へと向かっていた。日勤からの引き継ぎを受ける一時間ほど前であるが、通路は意外にも閑散としている。
「静かだな」
 ぽつりと漏らせば、アントニーは肩を竦めたようだった。
「このところは忙しいのか?」
「ま、お前が呼び出される程度さ」
 つまりは、切羽詰まって多忙、というところだろう。
「それより、体調の方は大丈夫なのか?」
「ああ、――ただ時々、たちくらみが起きるときがあるな」
「無理すんなよ。まぁ、何もなければただ歩き回るだけの暇な任務だけどな」
「何もなければ、な」
「嫌なこと言うなよ。ただでさえ条件悪いってのに」
 ぼやくアントニーに続きを促せば、彼は深々とため息を吐いて足を止めた。
「詳しくは言えないけど、でっかい捕り物があったんだ。そんで、それで捕まった連中が牢に入れられてる。今日の昼も運ばれてきた奴が居るから、そういう意味で騒然としてるな」
 ぼかされた「捕り物」はおそらく、クリスも参加した法務省の捜査のことに違いない。ヨーク・ハウエルの話によれば、囮も含めた一斉捜査が大々的に行われている最中である。次々に人が送られてくると言うなら、成果は順調に挙がっているということだろう。
「牢にも限界はあると思うが、大丈夫なのか?」
「仮収容みたいなもんだし、とりあえず武器だけ取ってそのまま放り込んでるみたいだぜ? ま、何にしても忙しいのは軍部の夜勤じゃなくて、法務省と収容所専任の奴らだからな。俺らはいつも通り、堅苦しく見回ってるだけでいいさ」
「そう願っている」
 心底思いつつ、クリスは頸の骨を鳴らした。厄介事が起こる起こらないに限らず、慣れたように振る舞わなければならないという苦痛が、彼の心拍を必要以上に高めている。
 初夜勤の新米がベテランと同じように勤務をこなせるか。答えは無論否である。どんな気の利いた新人であれ、できるわけがない。新人向けのマニュアルと巡回経路を頭にたたき込んだところで、現場での暗黙の了解、或いは臨機応変の対応など経験が物を言う分野はどうしようもないのだ。
(楽観的になれればいいんだけどなぁ)
 今ひとつそうなりきれない自分に苦笑を向け、クリスは深々とため息を吐いた。それをどう捕らえたか、アントニーが笑いながら彼の背を軽く叩く。
「ま、大丈夫だよ。やることなんか、たいして変わってないしな」
 それが問題なのだが、と思いつつ、顔には出さずにクリスは済まなそうに目を伏せた。
「まぁこの人手不足だし。大丈夫、近衛の坊ちゃんよりかは、どうやったってマシに決まってる」
「近衛? 彼らは王族の近辺警護だろう?」
「そ。所謂エリートさんたちも遊んでばかりはいられない状況ってこと。騎兵師団の奴らとかもちらほら見かけるぜ」
「騎兵師団は判るが、さすがに近衛は所属違いだろう」
 近衛軍団は、軍と名付けられながらも実は軍部の所属ではない。王と王宮を護るための別組織で、本来であれば関与不可能であるはずだ。
「軍務長官が強引にかり出してきたみたいだぜ? 正直、キラキラお綺麗なだけで役には立たないが、いい気味だ。軍務長官もなかなかやるよなぁ」
 王都の軍団を総括し、直属の諜報組織を国外にまで送り込んでいるやり手と評判だが、行動自体には掴み所がなく、あまり表に出てくることはない。国の三大組織の長のひとりながら、最も謎の多い人物である。
(……待てよ、諜報組織って、たしか)
 引っかかるものを覚え、クリスは顎に手を当てた。
 そうして何かを思い出しかけ、
「あっ!」
 短いアントニーの声に意識は現実へと戻り、浮上しかけた何かは綺麗に霧散した。
「クリス、隠れろ」
「な……?」
「いいから、ほら」
 装飾ひとつない岩石むき出しの壁に押しつけられ、痛みにクリスはアントニーを睨み付ける。彼を物陰に押し込んだアントニーはと言えば、同じように狭い通路脇に入り込み、表を窺っているようだった。愛想の良い、捉えようによってはどこか浮ついた笑みを終始浮かべている彼にしては、妙に真剣な表情である。


[]  [目次]  [