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 何事、と眉根を寄せ、無抵抗の意を示してからクリスも又通りの様子へと意識を向けた。
(声?)
 随分と暗くなってきてはいるが、そう長くもない通路を闇に落とすほどでもない。クリスとアントニーが歩いていたのを丁度向かい、その左手の通路に複数の人物が居るようだった。ゆっくりとこちらに向かっているのだろう。段々と足音が近くなっている。別段通行規制の加えられた場所でもないため、他に人が居てもおかしくはないのだが、問題はクリスが注意を向けた、その声そのものにあった。
「……ですわ」
 即ち、女の声である。軍部は基本的に女性の入隊を受け付けていない。余計なトラブルの回避、或いは女性の能力を差別してというよりは、受け入れる設備や規定がない、と言った方が正しいだろう。使用する設備から行軍での扱いまで、全く男と同じというわけにはいかないのだ。
 そういう理由もあって、一部の事務処理を行う者を除いては軍内部には男しか存在しない。
「なんで、ここに女の人が?」
 小声で呟けば、アントニーは僅かにうなり声をあげた。何、と彼に目を向け、如何にも悔しそうな顔に苦笑する。
「誰かが連れ込んだに決まってんだろうが!」
「……だな」
 肩を竦め、クリスは複雑なため息を吐いた。咄嗟に隠れてしまったアントニーの気持ちもわかるが、若干余計なことをしてくれたという感が拭いきれない。ふたりの状態を言えば、完全に興味本位の出歯亀以外のなにものでもなく、不本意だからと言って今更物陰から出て近寄るのも不自然に過ぎるのだ。
 どうしたものかと悩みつつ、それでも無意識に耳を澄ましてしまうのは、職業病半分、好奇心半分といったところか。
「あら、もうお別れですのね」
「楽しい時間は過ぎるのも早いと言う」
「まぁ」
 楽しげな会話だ。歯がみするアントニーに比べ、クリスにはさして、妬ましいといった思いはない。
 だが、と彼は眉根を寄せた。さほど広くもない通路故に多少反響しているが、男の方の声に確実に聞き覚えがあるのだ。
(まさか……)
 思いの先、嫌な予感が通じたかのように姿を見せた男を確認して、クリスは思わず噴き出しそうになった。
(って、ぅおい! レスター、やっぱりお前か!)
 心の中の突っ込みは盛大である。否、驚きを声に出さなかっただけ褒めて欲しいところである。あり得ると言えば否定できない有名人の出現に、アントニーも頬を引き攣らせたようだった。
 知り合いの逢い引きなど見たくもない、と断言したいところではあるが、噂の男であるだけに妙な興味がクリスを刺激する。生唾を飲み込み、更に首を通路の方へと伸ばす。
「さぁ、名残惜しいが、あなたはあちらだ」
「ふふ、これ以上進めば、誰に見つかるかも判りませんものね」
「私は構わないが、あなたを巻き込みたくはないのでね」
 ――と、ちらり、とレスターの目線がクリスたちの方へ向けられた。
(気づいてるな、あれは)
 しまった、と天を仰ぐが、心当たりがないわけでもない。アントニーによって物陰に押し込まれるまで、別段、気配を殺して歩いていたわけでもないのだ。レスターほどの軍人であれば、進む先の状況を遙か前から確かめていても不思議はない。
「また会ってくださる?」
「あなたが強く望めば」
「もう、意地悪な方ね」
 口では批難しているが、唇は艶やかに媚を奏でている。応えるように――否、この場合ははぐらかすように、だろうか、レスターは女の頬に軽く口づけると、腰に回していた腕をゆっくりと離した。女の方は、彼よりも名残惜しそうに服に手を滑らせている。
「……時間だ、では」
「そう……それじゃ、また」
 故意にか、再会を含む女の言葉には声に出しては応じず、レスターは何事もなかったように女へと手を振った。そのまま背を向けた、つまりはクリスやアントニーの方へと足を向けた彼をしばらく見つめていた女は、やがてため息を吐いたように首を傾けた。そして、少し足を戻し、暗い通路を遠ざかっていく。
 修羅場、ではないだろう。だが不謹慎な一場面を見てしまったことには変わりない。こういった男女の駆け引きにはあまり免疫のないクリスとしては、レスターの周りに絶えない噂は噂のままで止めておいて欲しかったというのが本音である。言ってみれば、同性の同僚としてどういう対応をしていいのかが判らない。
(アントニーの反応を見て決めるか……)
 主に性格の相違という観点からして、あまり参考にならない人物ではあるが、この際贅沢を言えた身ではない。
 そうこうしているうちに、レスターは物陰のごく近くまで来ていたようだった。
「覗き見とは関心しないな」
「いえいえ、邪魔をしないように潜んでいたまでですよ」
 頬を痙攣させながら、アントニーが上擦った声で皮肉を返す。軍部内での階級を気にしてか、同年齢帯一の出世頭であることを当てつけてか、はたまた単純な妬みがあってのことか、妙に粘ついた声音である。それを耳に、やはり参考にもならないな、とクリスは早々に見切りを付けた。
「しかし、堂々となさるものですね」
「別に、禁足地や王宮内で会っているわけでもない。知人と明るいうちに喋るのは何かおかしいか?」
「いえいえ、ただあの方は、ついこの間社交界にデビューなさったシェリー家のご令嬢ではないかと思いまして」
 クリスには知らぬ事であるが、相手はそれなりの華であったらしい。
「さすが、手広くなさっているようですが、あまり堂々となさるのはどうかと思いますがね」
「なに、本気で関係を隠したい女は、昼に会ったりしないさ」
「は?」
「彼女は、要は箔を付けたいんだよ。それなりに選り好みする遊び人に自分も声をかけられましたというな」
 遊び人、と自分で言っていれば世話はない。突っ込み所満載の科白だが、レスターが言うと妙な説得力があるのが不思議なところか。要は、自他共に認める地位も名誉も金もある美男子ということだ。
「クリスが妙齢の女性と密会しているというのとは、またわけが違うというわけさ」
 急にクリスに話題を振ったレスターが、器用に片目を瞑る。それまで他人の振り、を貫いていたクリスは、その意味ありげな視線を受けて知らず喉を鳴らした。
「……意味が判らない」
「クリスも、別の意味ではご令嬢方に魅力的ということだ」
「莫迦言え」
「本当のことだ。私が女なら、真っ先に君を落としにかかると思うな」
「何を気色の悪いことを」
 ため息を吐き、クリスはレスターを睨む。どうやら話を逸らそうとしているようだが、それを指摘するには生憎と、クリスとアントニーの方にも時間がなかった。


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