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 ちらりと窓の方へ視線を向ければ、勘の良いレスターが僅かに苦笑する。
「夜勤か? 予備役じゃなかったのか?」
「臨時復帰だ」
「なるほど、私たちを投入するだけでは足りなくなったか」
「そうらしい」
「まぁ、頑張れとは言わないが、何事もないことを祈ってるよ」
 クリスの内心を読み取ったかのような励ましだが、アントニーまで頷いているところをみれば、実際には定番の科白のひとつなのだろう。確かに、騒動に走り回る夜勤など何の得にもなりはしない。
 そのまま手を上げ、何事もなかったように去っていくレスターを見送り、クリスは深々と息を吐き出した。
「スカした野郎だよなぁ……」
 アントニーの言葉に、どうにも否定ができない。噂に聞いていたよりも気さくな人物ではあったが、噂もまた事実であると言うことだ。
「そういやクリス、あいつと知り合いだったのか? 随分親しげだったけど」
「ああ、いや……」
 内心でぎくりとしながら、クリスは言葉を濁す。
「以前に、少し話す機会があった。互いに悪い印象ではなかったが、その程度だ」
「へぇ」
 頷きながらも、アントニーはどこか胡乱気だ。だが、それ以上の言い訳は思いつきそうにもない。
(厄介だ、厄介だけど……!)
 本当の事情など、話せるわけがない。
 特捜隊は必要に応じて名乗ることも許されてはいるが、厳密には秘密裏に招集されて設けられる臨時の部署なのだ。自然に周囲に悟られたところで罰則があるわけではないが、口が軽いとみなされるか、能力が低いと判断されるか、いずれにしても良い評価は得られない。
 それ故に、非常時や任務に関わりのあるとき以外は、メンバーであると特定できないように振る舞う必要がある。
(あの野郎、わざと面倒を引き起こしやがって!)
 まさか、レスターがそのことを忘れているとは思えない。出歯亀への返礼というわけだろう。
 今頃どこかで笑い声を上げているに違いないレスターを思い、クリスはギリギリと奥歯を鳴らした。

 *

 完全に陽が落ちると、広大な敷地の奥に建つ軍施設には耳の痛くなるような静寂が訪れる。いつかクリスが剣を振るい、セス・ハウエルの訪問を受けた訓練所周辺には人も残っているが、管理棟の一角である宿直の待機部屋となると、関係者が黙れば物音ひとつしない有様だ。
 施設内の巡回はふたり組で一時間ほどかけて行うこととなっている。出発地点から廻り、中継地点で番兵と任務を交代、その一時間後に別の組が交代に訪れ、到着地点までをまた廻りそこで番といった、一回四時間の勤務形態だ。経路は割り当てられた区域によって異なり、時間通りに歩き続ければほぼ同じ場所で他の夜勤者と顔を合わせることもある。
 二十時に巡回を開始したクリスとアントニーは、丁度日付の変わった時点で仮眠時間となり、待機部屋に落ち着くこととなった。規則に定められている仮眠時間は四時間。その後また朝まで巡回と番をこなすこととなる。
 本来であれば、与えられた時間の名前通りに体を休めておくべきなのだろう。だが、予想通りの疲労と妙な高揚感がアンバランスに混在するクリスは、どうにも簡単には寝付けそうにもなかった。
「クリス、ちょっと体動かそうぜ」
 故に、本来なら断るべき誘いをかけられたとき、クリスは思わず反射的に頷いてしまった。若干、判断力を欠いていたともいう。受傷後すぐの、謂わば己の剣技と体の状態を確かめるためにアントニーを相手にしたときとは状況が異なるのだ。それなりに「慣れた」今は過去のクリストファーとの違いを知られるような行為は、特に知己との間では避けなければならない。
 了承を得て嬉々として木剣を手に取ったアントニーに、はたと我に返ったクリスは、慌てて抑止の声を上げた。
「しかし、ここを抜け出すのか?」
「何言ってんだ。まさかお前、入団の時から今までずっと、真面目に寝てたってのか?」
 呆れたような返答に、クリスは内心で青褪めながら、顔だけは無表情に首を横に振る。どうやら、仮眠時間とは名ばかりに若い者たちの間では格好の手合わせ時間となっているようだ。警備等の軍の通常任務に加え、集団での槍術を基本とした練兵、自主訓練、いずれにも他者、主に上司の目が光っており、実力の近い者同士が思うままに仕合うことは難しい。
 ならば勤務時間外や夜間に、と思わぬでもないが、それはクリスの現状が無職に近い状態であるからこそ出来ることなのだろう。他にも理由はあるに違いないが、いずれにしてもそのような裏事情をクリスが知るわけもない。
 若干訝しげなアントニーを口先で丸め込み、クリスはそれ以上の問答を避けるように先に外へと飛び出した。
「おいおい、ちょっと待てよ。そのまんまじゃ何も出来ないだろ」
 後ろから、アントニーの苦笑が背中を叩く。
 等間隔に明かりの灯された施設内を出ると、そこは飲み込まれるような闇の空間となる。出てきた扉から照らされるランタンの灯りに失態を悟り、クリスは自己嫌悪に頭を抱えた。
「何慌ててんだよ」
「久々でいろいろと忘れているだけだ」
「ひと月だろ? そんなもんか?」
「そんな程度だ。――それより、ひと雨来るかもしれないな」
「え? ああ、まぁ、まだ大丈夫だろ」
 いっそ降っていてくれればとも思うが、残念ながら今のところは空気が重い、という程度である。
「何、話逸らしてんだ?」
「別に。それより、この辺りでいいか?」
 待機部屋を出てすぐ、クリスが灰色に垂れ下がる空を見上げている場所は道と言うには広く、かと思えば何があるわけでもない妙な空間となっていた。新人向けの資料によれば、これは火災を警戒して設けられた間であり、故に少し離れた場所に位置する土壁の脇には万が一に備えての水桶が備えられている。
「いいんじゃないのか? あんまり離れるのもアレだしな」
 言い、アントニーは手にした木剣の柄を叩く。
「じゃ、さっさとやりますか」
「……一応仕事中だからな、体を温める程度だ」
 生真面目さを強調し、且つ負けたときの言い訳になるようにと前置きを口にして、クリスは木剣をアントニーへ向けた。
「判ってるよ。お前こそ、躍起にさせるなよ」
 妙な釘を刺すアントニーには、似たような状態での失態があるのかもしれない。或いはそれがクリストファーとの間に起こったものなのかも知れないが、クリスには知る術はなかった。思えば、苦味を帯びた諦観が胸の奥を滑り落ちる。


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