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「!?」
「もしかして、クリストファー・レイか!?」
「え……!? レスター!?」
 まさかの声に、クリスは大きく目を見開いた。無意識に相手を見定めようとした行為だが、あいにくとそれで判別できるような明るさではない。世の中には人の声音を真似る者もいる、と警戒のままに距離を取る。
 だが、相手の方は名を呼び合った、それだけで確信したようだった。
「そうだ。レスター・エルウッドだ。偽物じゃない」
「……」
「先日、墓地で君の奥方に助けを求められた。これでいいか?」
「……わかった」
 確かにその事実は、本人以外には知りようがない。ため息と言うには深すぎるそれを体内から出し尽くし、クリスは流れ落ちる汗を拭った。
「しかし、何故お前がここにいる?」
 自然、咎めるような声になったのは如何ともしがたいところである。レスターはといえば、若干困惑したように後頭部を掻いたようだった。
「それは私の科白でもあるな。君たちと別れてから自主訓練をしていたが、その帰りに不審な人間を見かけた。それを追った結果が今だ」
「不審な人間?」
「法務省の方面から軍部というか、王宮方面へ隠れて進む者がいた。普通は通らない道だ。それを付けては来たが正直なところ、私にもここがどのあたりか判らない」
 聞きながらクリスは、施設の全体図を思い浮かべた。むろん、詳細は機密のために省かれている部分も多いが、どの方面に何があるかという程度には予想が付く。レスターの言った法務省方面に牢又は収容所を入れてもよいのなら、レスターの追ってきた人物はまさに、クリスのそれと同じ目的を持っていた者と仮定することが出来る。
 だが、そう問うたクリスに向け、レスターは首を横に振ったようだった。
「悪いが、見つけた場所からは、そこまで特定はできない」
「そうか」
「それに、どこの誰とも判らない。なにせ、クリスを敵と勘違いしたくらいだからな」
 追跡というよりはもはや尾行、更に言えばレスターの目から見ればクリスも充分不審者のひとりに映ったのだろう。互いに追っていた相手、もしくはその仲間として攻撃を仕掛けていたのだから、あまり洒落にならない状況である。
 あそこで悪態を吐かず、それにレスターが気づきもしなければ確実に斬られていた、と今更ながらにクリスは苦笑した。
「私の方はそういうわけだが、クリスは? 夜勤と言っていたな。何があったんだ?」
 実のところ、話すことはそう多くはない。かいつまんで説明すれば、レスターは質問を挟むことなく理解したようだった。
 考え込むような短い沈黙の後、どちらともなく戻るかと呟き、狭い道を引き返す。
「――雨だ」
 屋外に出たところで、レスターが呟いた。
「火が消えるな。――ここは、確定は出来ないが、王宮にかなり近い場所だな」
「王宮? そんな方面に走ってたのか」
「正直、逃げ道があるとは思えないが、……わざとこの道を選んだのなら、正解かもしれないな」
「? どういうことだ?」
「クリスたちが軍部方面から救援に来たように、財務省関連施設のや法務省の方の警備人も騒ぎを聞いて来ていただろう? だが、王宮はどちらかといえば報告を待つ方だ。自衛を強化することはあっても、救援には出てこない。だから、こちらに逃げ込んでしまえば、管轄違いの私たちには追うことができなくなる」
「近衛が臨時に夜勤をやっていたが……」
「それはイレギュラーだな。だが奴らが私たちの手伝いなどするものか」
 そう言えば、騒ぎに駆けつけもしなかったようだ、とクリスは思い出す。
「王宮のお飾り、――とまでは言わないが、プライドの高い奴らが、泥にまみれる仕事に手を貸すことはないだろうな」
 言い切り、レスターは肩を竦めた。
 近衛は国王直属の機関に属し、王宮の警備や要人警護を一手に引き受けている組織である。国王の一般祝賀の際に周囲を固めるきらびやかな集団、というのが一般庶民の認識であり、二位以上の貴人及び貴族の称号を得ない限り、関わり合いになることはない。
 アントニーの評価といい、どうやら軍部と近衛は犬猿の仲であるようだ、とクリスは苦笑した。
「レスターなら、あの衣装も似合いそうだ」
「断ったさ」
「は?」
「推薦されかけたが断った」
 正直なところ、近衛への編入は、軍部で隊長格へ昇格する以上の出世である。組織的な立場上反目し合っているとは言え、個人的な昇進となれば別の話だ。資質を認められての推挙であれば尚更、ありがたく受ける以外の道を選ぶ方が稀と言える。
 その稀少例を横に、クリスは何度か瞬いてから頬を掻いた。
「嫌だったのか?」
「ああ」
「そうか」
 であれば、仕方のないことだ。順風満帆な親の商売の跡を継ぐという楽な道を捨てて、親戚筋にさえ全く縁のなかった軍部へ入るクリストファーのような人間もいる。それを思えばレスターの決断に対し、勿体ないなどと言えるわけもない。
 気のなさそうに頷いたクリスに、レスターは何度か瞬いたようだった。
「おかしな奴だ」
「喧嘩を売っているのか?」
「いや。方々から、莫迦なことをしたと嘆かれたからな」
「肩書きだけを見ればうまい話を蹴ったということになるだろうが、そんなもの、本人の勝手だろう?」
「そうか?」
「それに別に、職もなく遊びほうけてるわけでもない。家長としての義務を充分に果たしているのなら、好きにすればいい。それ以上を望み押しつけるのなら、言う方にはそれ以上のものを負って貰わなければお前も面白くないだろう」
「なかなか、斬新な意見だ」
「そうでもない。我慢して何かをするためには、それを押しのけてくれる理由がいる。俺は妻や家で働く者の為に出来るだけのことを頑張ろうとは思うが、それは彼女たちが、俺がそう思えるだけのことをしていてくれるからだ。家での援助や、気持ち的なものを含めてな」
「……」
「本音を言えば、全部投げ出してしまいたいときもある。俺一人が逃亡したところでどうとでも生きていける。でもそれはしない。周りが今を惜しいと思わせてくれるから、俺は今に踏みとどまっている。そいういうことだ」
 今の状況も何もかも、全部のしがらみを捨てて知らない土地に行けば、クリスは確かに楽にはなれるだろう。気を遣って演技することも、慣れない仕事に振り回されることもない。
 だがそれは、最も容易く、最も虚しい道だ。クリスはまだ全てから解放されることを望むほどのことはしておらず、全てを捨てても楽しめるほどの享楽的な性格でもない。人と人とのしがらみに惑わされ、癒され、共に歩くことを良しとする普通の人間だ。だからこそ迷い、悩み、そしてそれは必要なことなのだと思っている。


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