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 ただ自分も含め、あのまま時間が経過していればと思うとぞっとする。それは間違いない。
「でもまぁ、今はそれぞれの担当がちゃんと来たから心配ないんだけどな」
「そうか。……おっと、すまない」
 返事の後ろ半分は、通り過ぎざまにぶつかった者へ対しての言葉である。同じように謝罪する相手の方を見て、クリスはふと首を傾げた。
「何か、人が多いな」
「そりゃそうだろ」
「いや、向こうに」
「ああ。そっち、怪我人がまとまってる方だな」
 なるほど、と遠くに目を向ける。野次馬に近い人の壁の奥で、確かに水だ薬だと指示が飛び交っているようだ。
 彼らも大変なことだと同情を向け、自分も仕事を全うせねばと足の向きを変え、――だがそこでクリスは動きを止めた。
 ――何かが、居る。
 通り過ぎようとした人垣のその奥、目を向けていた方に、不思議な光がある。否、光る何かが、――光る人が宙に立っている。
「……!」
 思わず上げかけた声を飲み込み、クリスはその方を再度凝視した。今度こそ、目の錯覚でも見間違いでもない。そうして明らかに異質なものがあるにも関わらず、クリスの他には誰もそれに気付いた様子はなかった。
 どういうことかと、クリスは背中に冷たい汗を流す。
「クリス? どうかしたか?」
「いや、……あそこに」
「何か? だからあそこは怪我人がって言ったろ?」
 不審の色を帯びたアントニーの声が、困惑に押されてクリスの背を叩く。だが、それに頓着する余裕もなく、クリスは食い入るようにその方を見つめた。
(あれは)
 不可思議な、否、クリスはその存在を知っている。
(ゲッシュ?)
 彼かと思い凝視するが、何故かいつものような正確な像を結ばない。ぼんやりと、人型に光る何かが居る、そう判る程度だ。
 呼びかける声を後ろに、クリスはふらりと人垣の方へ寄った。厚い壁の中心にはおそらく、死亡或いは負傷した捕縛者が集められているのだろう。ざわめきに取り囲まれたそこには、はじめには見ることのなかった医師の特徴的な姿があった。
 その、彼らのすぐ側に、光る人。雨はむろん、当たって弾けることもなく、光の中を通過して、そのままに地面を叩いている。
(まさか、誰かが、死ぬのか……?)
 導き人、少なくともゲッシュは、己の可視不可視を自由に調整することが出来る。であれば、いくら別の魂を導きに来ているのだとしても、クリスに見えなくすることも可能なはずだ。実際、見えずとも呼びかければすぐに現れるほどに、彼はいつもクリスの近くにいる。
 故に、ぼんやりと光る導き人は、わざとクリスだけに見えるような状態になっている、と考えるべきだ。だが、何故、とクリスは眉を顰めてそれを睨む。
 そう、答えのでない疑問に頭を悩ませているうちに、事態は少しずつ進行しているようだった。人の中心に居た医師が頭を横に振っている。それはどうしようもないという意味で、つまりはまた死者がひとり、犠牲者として名を連ねることになるということだ。
(いや、ゲッシュの言葉を信じるなら、エネルギーが尽きて、それが死を呼び込むってことだけど)
 肉体の死が一個人のそれの引き金になるか、はたまた人智の届かぬ処の定めが肉体をそちらへと導くのか。いずれにしても結果だけを見れば一個人の死でしかなく、そこに違いはない。
 胸を掴まれる感覚のまま、クリスは視界の中で起こるだろうことから、目を離せずにいた。
 淡く光る人型、導き人の腕が動く。組んでいたと見られる位置から横へ、すっと伸びた光の線はやがて、同じようにぼんやりと光る靄を下から掬い上げた。
「!」
 突如、クリスの耳に表現しがたい不快な声が響く。
「クリス!?」
 僅かに体を折ったクリスの肩を、アントニーが支えて慌てた声を上げた。彼には関係のないはずの心配をかけている。それは判る、だが、クリスにそれを気遣う余裕はない。他の者が不気味な唸りを聞いていないと察しつつ、それがどういうことかと反復するように自分に問いながら、叫びたくなるのを必死で抑えていた。
(くっ……)
 大きくはない。だが体を軋ませるような不快で、しかしどこかもの悲しい響きに、酷く心が痛む。だが、耳を塞ぐことができない。周囲の喧噪が遮断されたかのような錯覚を覚え、それ故により強く耳にこだまする。全身から粘ついた汗が滲み出るのを自覚しながら、何も出来ずにクリスは生唾を飲み込んだ。心臓は早鐘を打ち、指先から感覚までもが消え失せる。
 数十秒、否、おそらくは十秒にも満たない時間であっただろう。次第にか細く消えていく声にクリスはようやくそこで細く息を吐いた。
 そうして目線を上げ、額から落ちる汗を拭い、見えたものに息を詰める。
(嗤った!?)
 もがく――そう、クリスには見えた――白い靄を手にしながら、人型のそれがはっきりと口を曲げたのだ。どこか明確な線を結ばない存在をして、はっきりと、と明言するのはおかしいのかもしれない。だが、クリスはそうとしか感じられなかった。
 導き人は、嘲笑している。そしてそこには、明確な悪意があった。
(まさか、――私にアレをわざと聞かせて、見せたのか?)
 お前もこうなっていたのだと、見せつけられたとしか思えない。しかし何故、とクリスの唇は細かく震えた。
 誰もの上に平等にある死を理不尽に避けたのだと、そう言いたいのだろうか。
「……リス! クリス!」
「っ!」
 体を揺さぶられる感覚に、クリスははっと目を見開いた。
「おい、クリス、どうしたんだよ!」
「あ……」
「急にどうしたんだ。例の発作か!? 真っ青じゃねーか!」
「いや……」
 冷たい汗の流れる額を抑えつつ、目を固く瞑る。戻ってきた現実の音にゆっくりと息を吐き、クリスは力の入らない体に叱咤をかけた。
「もう、大丈夫、だから」
「嘘吐くなよ。大丈夫って顔じゃねーぞ?」
「ホント、大丈夫」
 言いながら瞼を上げ目線を遠くに飛ばせば、既にクリスだけに見えていた光景は、何事もなかったかのように消え失せていた。導き人とおぼしき光る人型も、その手に掴まれた白い靄も、跡形も見あたらない。小雨に煙る中、自覚のない野次馬の中心で怪我人の救護にあたる人々が走り回っている、そんな不思議でもない場面があるばかりだ。
 冷たい雨雫が、腕から流れ落ちて冷えた指先から滴り落ちる。感覚に、クリスは背を震わせた。
「ごめん、ちょっと戻ってて」
「え?」
「すぐに向こうに戻るから」
「え、ちょ、――おい!」
 戸惑うアントニーを振り払い、もつれそうな足を必死に動かして人混みの中から離脱する。ぶつかり、ぶつかられ、何度も謝りながら走る羽目にはなったが、それはアントニーにも言えることだ。強引に人を押しのけてまで進む理由のない彼は、そのうちに視界後方から姿を消した。
 かがり火もない真っ暗な狭い通路の壁に手を突き、クリスは荒くなった息の下で男の名を口に乗せる。
「ゲッシュ!」
 咳き込み、もう一度。
「ゲッシュ、いるんでしょ!」
 だが、天井から反響が落ちるのみ。闇は闇のまま、鼓膜は雨音と遠くの声を拾い続ける。やがてクリスの足下に水が溜まり、それが幾つかの川となって石畳の隙間に染みていく。
 人が近くにいるから現れないのか、と考え首を横に振る。それは、導き人にとっては何の問題でもないはずだ。その気になれば、彼らは外界の音を遮断する術さえ持っている。
「出てきなさいよ、聞こえてんでしょ!」
 地のままに叫ぶクリスに、その自覚はなかった。その時そこにあったのは怒りか恐れか、それすらも判っていなかったに違いない。
「ゲッシュ!」
 だが、やはり返答はない。いつもならすっと光り、そうして現れるはずの姿は、不思議に響く柔らかい声は、いつまで待ってもクリスの呼びかけに応えることはなかった。
 この場にいないのか、応える気がないのか、それすらも判らない。
(何故……)
 クリスの中を、定まらない思考がぐるぐると回り続けている。
 そうして十数分後、焦りと怒りを滲ませたアントニーがその場に走ってくるまで、彼はただ呆然と立ちつくしていた。


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