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「法務省内部に、仕掛けを施せる組織の一員がいたということですね」
「それも、近いところに、かもしれないな」
 言い、クリスは長く細く息を吐く。どちらにしてももはや推測の域を出ない話だ。事件は解決し、蒸し返せるような年月はとうに過ぎ、全ては記録のみでしか残されていない。
(いや、記録……か)
 ヨークの顔がちらりと脳裏を掠める。否、気になるのはその関連項目、失われたというチェスターの手帳だ。
(当時の様子がそこに書かれているなら、なんらかの手がかりになるかもしれない)
 しかし、それを探す方が荒唐無稽というものだ。簡単に見つかるものなら、ヨークがとうに手に収めているだろう。
 ――昔の事件です。ひとりが組織との孤独な戦いに敗れて表から姿を消した、それが今起こっていることの何に繋がるんです?
 ふと、アランの言葉を思い出し、クリスは顔を顰めた。
(それにヨークさんも、法務長官は手帳の内容を知っているようなことを言ってたし……)
 今それを追って何になるのか。ひとり、或いはふたりの冤罪が晴らされる可能性はあるが、そこで終わりである。強いて言えば、汚職事件に関する資料が抜き取られているという事実に不安を覚えるが、それにしても今回の事件と関係があるとは限らない。
(いや、手帳の内容を知ってたからこそ、ふたりの重鎮がいた場所で特に法務長官が狙われたと考えれば、無関係じゃない)
 ここでひとつ、仮説が浮上する。行方不明になっている件の”物証”がバーナード・チェスターの手帳である可能性だ。
「ヴェラ。法務部ではその後、例の”物証”についてはどう解釈されている?」
「行方が掴めていない以上、憶測の域を超えるものではありません。以前はそれが見つかった場所から、被害者やその顧客のリストという説が有力でしたが、最近では連判状ではないかと言われています」
「連判状?」
「はい。組織に与した人間は多く居りますが、その幹部についてはゼナス・スコットと関わりの深かった人物から辿るか、保護と減刑を条件に口を割った者から情報を得るかの二通りが主でした。そうというのも、それなりに地位があり権力がある者が多く関与しながら、臆した者の裏切りや反故を回避するはずの連判状が見つかっていない為なのです。そういうものがあったという情報はあるのですが」
 密告等の裏切りを防ぐために、或いはそうと知らずに組織に関わってしまった人間からの告発を回避するために、共犯であることを示す書類が作成されることは多々あることだ。否、形式は数多あるとは言え、法律で定められた誓約書の類でないとは言え、名を連ねれば仲間と見なされるそれは、後ろ暗い何かを大勢で為すときには必須といえる代物である。
 当然、国から膿を出すためには最も重要なものであり、横の繋がりを曝くための重要な証拠として最優先で探されるのが常だ。かつての法務部の捜査官たちもマニュアルに則り、罪状を定める証拠と共に血眼になって探したに違いない。
 それでも見つからなかったのは、即座に破棄されたのか、何者かが未だ隠し続けているのか、或いは隠した者が戻るに戻れぬまま放置されているのか。
 そこまで考えて、クリスは緩く頭振った。どれも憶測の域を出ない話だ。
「チェスターの手帳かもしれないと、考えていますか?」
 見透かすように問うヴェラに、クリスは素直に頷いた。
「確かに可能性としては浮上しましたが、ハウエル長官がその存在を知りながら放置していたということが気になります」
「そうだな。確かにそうなんだが」
 実際、クリスがヨーク・ハウエルより手帳の存在を聞かされた時も思ったことだ。手帳にはさほど重要な事は書かれていないだろうと。だが、バーナード・チェスターの存在が、汚職事件の記録まで抜き取られるほどに何者かに注視されていたのなら話は変わる。
 ひとつの案にはどこか矛盾する点があり、どれもありそうで確信が持てないといった状態だ。
(多分、重要な何かが抜けてるんだ……。だから、少しずつ情報が見えてるのに、全部にどこかちぐはぐなことが出てしまう)
 胸の奥に意識を逸らせないしこりがあるような、焦れったくもすっきりしない心地だ。だが今すぐにそれをどうにかすることは不可能なのだろう。
 クリスは深々と息を吐き、首の骨を鳴らしながら改めて資料へと目を落とした。陽は殆ど落ち、室内は文字を判別するに困るほどの暗さになりつつある。何度か目を細め、眉間に指を当て、そうしてしばらくの沈黙の後、クリスはもどかしい思いに乱暴に頭を掻いた。
 それを見たか、ふと、ヴェラがため息を溢す。
「このあたりにしましょう」
「え?」
「これ以上は考えていても効率が悪くなるだけです。一旦時間を置きましょう」
「しかし……」
「仕切り直しです。もう一度、当時の人間関係をまとめ直した方がいいのかもしれません」
 強く繰り返すヴェラ。何度か瞬き、その意見も尤もだと認めたクリスは、一度頷いて机の上に散らばっていた資料に手を伸ばした。ここに在るのはヴェラのものだが、クリスの家にも同じものがある。確かに、昨夜からの疲労も残っている今、焦って結論を求める必要はない。
 了承の言葉の代わりに散乱していた資料束ね、クリスはそれをヴェラに渡した。無表情のままにヴェラが受け取るのを確認し、彼は扉へと手を掛ける。
 そうして鈍い音を鳴らしながら扉を開け、
「……?」
 途端耳を襲った大勢の声に、クリスは目を丸くして仰け反った。
 多忙な法務省にはあってないような規定だが、国が管理する施設で働く者には、一応仕事に携わるべき時間というものが定められている。管理職の者が執務室に籠もり終わりの見えない仕事に唸ることはあっても、宵に入ったこの時間にざわめきが起こるほどの人数が通路を通ることなど通常ではあり得ない。
 困惑するクリスの後ろで、窓への施錠を終えたヴェラもまた、形の良い眉を顰めて足を止めた。
「随分と煩いようですが、何かあったのでしょうか」
「騒ぎ、というようではないようだが」
 単純に混雑しているだけの騒がしさ、といった様子である。互いに顔を見合わせ、夜間通用路とは逆の物音の高い方へと向かえば、果たして、同じような野次馬が狭い通路いっぱいを塞いでいた。
 普段法務省では見ることのない、クリスと同じ服装の男、つまりは軍人の姿もちらほらと見受けられる。
「護送、のようですね」
「もしかして、爆破で破壊されて行き場所のなくなった奴らか?」
「おそらくは。……ああ、では、地下の拘束場所に向かっているのでしょう」
「拘束場所?」
「裁判所は管轄外ですので詳しくは知りませんが、裁判の期間が長引いた場合に一時的に留置しておく場所があるのです」
「ああ、だが、あまり広くはないだろう?」
「詰め込む気でしょう」
 さらりと言ってはいるが、それなりの人数にはなるはずだ。普段であればすぐに罪が確定する程度の軽犯罪者もその中に混じっていることを思えば、彼らには自業自得ながら若干の同情を禁じ得ない。さぞかし不快指数の高い牢生活となるだろう。


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